地上十五階、まるでホテルのスイートルームを思わせる脳外科の医局。
そこに、教授をのぞく脳外科医全員がいつも顔をつきあわせている。
沢渡麻紀(さわたり・まき)のデスクは窓側にあった。
そこから、ここ東京都板橋区と埼玉県戸田市の境界をなす荒川を一望にすることができる。
おそらく医師らが白衣をまとっていなければ、ここが大学病院の医局であるとは誰も思わないだろう。
東京千代田区飯田橋の旧付属病院が取り壊され、板橋に移転してから一年になるが、麻紀はまだこの新病院の雰囲気になじめなかった。
一階のエントランスホールには、中央部分が吹き抜けになっている空間があり、外来患者らはまず、その中央にある東亜大学創始者の胸像と天井を飾るシャンデリアに驚かされる。
次いで、初診受付のある待合ロビーの稼動式シートに坐り、静かに目を閉じていると、エステサロンにでも来たような錯覚に陥ってしまう。
しかし、その非現実的な静寂感とでもいうべき感覚は、逆に患者を落ちつかなくさせるらしく、患者の評判はかんばしくなかった。
そもそも、この病院の移転話に彼女は反対だった。
飯田橋の旧付属病院は戦後間もないころの建築で、老朽化は進んでいたものの、時代遅れの螺旋階段やペンキのはげた診察室、迷路状に入り組んだ廊下や戦前の教室を彷彿とさせる病室……それらすべてのものが、研修医時代からそこで勤務していた彼女にとって、青春時代の残滓(ざんし)そのものであった。
そこには、投薬窓口のガラス戸を開けて患者の名前を呼ぶ声や、その声がテレビや患者どうしの話し声にかき消されるという喧騒と活気があった。
だが、取り壊された付属病院の瓦礫を眺めてみても何の感慨もわいてこなかった。
古いものが新しいものに生まれ変わる……それは至極あたりまえのことだったし、古きよき思い出も瓦礫の山になってしまえばゴミの山でしかない。
かつて網膜に映し出された映像は、大脳皮質の側頭葉(そくとうよう)と呼ばれる神経細胞に記録されるだけ。その記憶も年を経るごとに曖昧なものになっていくのだろうか……。
麻紀がそんな思いに耽りながら、夏の日差しに照り輝く荒川を見下ろしていると、傷一つない扉をノックする音がして、
「沢渡先生、午後の診察前に、例の患者を……」
看護師が半開した扉から顔を覗かせ、無機質な声でそう告げた。
「いますぐ行きます」
(つづく)
※「第二回北区内田康夫ミステリー文学賞」の特別賞受賞作品を改題して加筆改稿したものです(木曜日と土曜日更新の予定ですが、次の土曜日は「江戸ブラ会」京都合宿のため、次回は明日の金曜日に更新する予定です)。