(前回までのあらすじ)
東亜大学附属病院で脳外科医を務める沢渡麻紀は、
閉鎖的な医局の中で孤立感を深めていた。そこへ、
意識不明のホームレス患者が搬送されてきた。彼女
が患者をフォローすることになったものの、患者の
身元は不明。他の男性医局員の鼻を明かすためにも、
何とか患者の意識を取り戻したいと思う彼女だが、
その前に、身元を割り出す必要があった。
看護師は、ギリシア彫刻のように無表情な患者にちらっと目をやってから、こう告げた。
「患者が搬送されたとき、麻製の巾着袋を首からぶら下げていたんです。初療室で巾着袋をはずして、手術を終えた芳澤先生が中を開けてみると、小さく折りたたんだ地図が四枚出てきました」
「地図? 小さく折り畳んでいたということは、けっこう大きな地図だったんですね」
「はい、わたしの家のテレビ画面と同じくらいの大きさだったかしら。ちなみに、わたしの家のテレビは32型です」
「へえ、そんなに……。それで、どこの地図なんです」
「東京です……というか、まだ、あのころは東京っていってなかったわよね」
看護師は、ひとり言のように呟いてから、
「江戸の町の地図です。和紙に印刷され、紙はもう垢まみれで摺り切れていました。でも地図そのものは四色刷りで色鮮やかなものでした」
といった。
「江戸の…地図…ですか…」
そのとき、麻紀の脳裏に一人の友人の顔が浮かんだが、すぐ頭の中から消去した。できることなら、あまり彼女の力を借りたくない。
「はい。嘉永(かえい)とか安政(あんせい)とか、そういう年号が地図に入っていました」
「嘉永というと幕末ですね。嘉永六年は黒船来航の年……安政六年には有名な吉田松蔭が投獄されて、安政の大嶽と呼ばれていますものね」
と、いってから後悔した。ついつい“彼女”の受け売りで講釈を垂れてしまったからだ。
「先生、歴史に詳しいんですね」
「いいえ、わたしは別に……。大学の友人で詳しい子がいるんですよ。いまでこそ、歴史好きの女性は“歴女”だなんて持て囃やされているけど、わたしたちが大学のころ、サークルの歴史研究会に女性で入っていたのは彼女だけ。会うたびに歴史の蘊蓄(うんちく)を聞かされ、もう耳にタコができるほど」
別に彼女のことを嫌っているわけではないが、たまに会って食事しても、知識をひけらかされ、うんざりすることが多い。それに……。
そうやって、つい“彼女”のことに頭が向いてしまっていたとき、数人の医師と看護師が慌ただしく病室内に駆けこんできた。
みんな、救命救急の医師と看護師ばかりだ。
彼らはホームレス患者の前を素通りして病室の奥へ進んでいく。そのとき一人の医師が、麻紀の目の前にいる看護師に目配せした。
どうやら、ICU内の別の患者の容体が急変したようだ。
「ありがとう。この患者の所持品は、江戸の地図四枚だけだったんですね」
「はい、そうです。地図は警察官が持ち帰りました」
そういう彼女にもういちど礼をいい、麻紀は静かに病室を後にした。
(つづく)
※「第二回北区内田康夫ミステリー文学賞」の特別賞受賞作品を改題して加筆改稿したものです(木曜日と土曜日更新の予定です)。