法事で横須賀へ | 風のブログ

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東京都墨田区から沖縄県糸満市名城へ移住し、
イヌたちとバイク、ヨットを楽しんでいます。
沖縄田舎暮らしをお届けします。
というか、自分のための備忘録です。

 

  法事の朝

親父の七回忌とお袋の1周忌を同時に行うことになっていた。

仲のよかったふたりだったので、法事も同じ日で良いかと、母の日に予定した。

当日の朝、早く目が覚めて潮見表を見ると、ちょうど満潮だ。昼過ぎの飛行機を予約していたので、時間は十分にある。目覚めの運動だ。

犬たちはまだ寝ていたので、ひとりでSUP。いつものようにキレイな海で、数匹のウミガメと挨拶をして、東京の家へ出発だ。

 

 

飛行機で居眠りをしていると「左手に富士山が見えます」とアナウンスが入り、外を見ると、雪をかぶった富士山が雲に浮かんでいた。
久しぶりに見る日本一の山をしばし眺め、タイミングをはかり、実家のある三浦半島が入るように調整し、シャッターを押した。

 

 

  ワイン酒場あるびぃ

今回は仕事の予定を入れたくなかったので、夕方に友人が営む「ワイン酒場あるびぃ」で娘と待ち合わせた。
羽田に到着すると、錦糸町行のバスが1時間後だったので、久しぶりに電車で移動することにした。いつもは社員が迎えにきてくれるが、今回はプライベートだ。
京急と総武線を乗り継ぎ、錦糸町へ。荷物を東京の家に置き、隣の駅の亀戸まで歩いた。毎日、犬たちと長い距離を歩いているので、錦糸町~亀戸では運動不足だ。


 

ほどなく「あるびぃ」に到着。到着すると、毎回この看板を見てほくそ笑む。
10年前、店主である友人から入口の看板の入稿データの作成をお願いされたのだが、ちょっとイタズラをしたのだ。

 

 

ワイングラスの中に気泡があるが、これを「サカナ」にしてやった。
開業後、数年してネタばらしをしたのだが、友人はまったく気づいていなかったらしい(笑)。その日以降、この看板はいい酒の「サカナ」になった。店主もまんざらではないようだ。こんなイタズラも面白い。

 

 

あるびぃはワインバーだが、何といっても料理がいい。当日のメニューは「おまかせ」で、旬のものをおいしくいただいた。
しかし、だ。グラスビール2杯、ワインボトル2本、グラスワイン3杯をやっつけ、2件目に知人が錦糸町で営む「ホートンズ」へ行ったようなのだが、まるで記憶がない。娘によると、路面店だったことに驚き、内装壁のサーモンピンクの壁を褒めまくり、店主と握手をして再会を喜び合っていたそうなのだが、まったく記憶がない。

「おとうはお店の前で写真を撮ってたよ」と娘が言うので、翌日、携帯の写真フォルダを見ても何もない。翌日、娘からlineで上の写真が送られてきた。何てことはない、娘も相当酔っぱらってたそうだ。

 

  いざ法事

翌日、妹家族の家に娘と行き、妹が整理してくれていた両親の写真を眺めていると、とてもいい写真を見つけた。

父は四人兄妹の長男で、この写真は10歳くらいだとすると、1949年頃と思われ、戦後間もない頃の写真だ。翌日、法事に参列してくれた叔父に見せると感激してくれ、祖父の趣味がカメラだったので、当時撮影した白黒写真に色をつけ、この写真ができていることを教わった。

それにしてもみんないい顔をしてるね。

 

 

法事は横須賀市長井にある長徳寺。浄土真宗のお寺だ。長井漁港のそばにあり、太平洋と富士山を望む。境内はいつもキレイに掃除がされ、建物もしっかりとメンテナンスがされているいいお寺だ。

お墓参りを済ませ、本堂で両親の法事を行った。お経を聞いていると、お坊さんの声が以前よりも響いてた。終わったあとに尋ねると、昨年くらいからボイストレーニングに通い始めたそうだ。

いいお寺はお坊さんも努力をしてくれているのだ。

 

 

 

  さらば実家

法事を終え、妹の旦那(年上の義弟)に実家のあった場所へ連れて行ってもらった。

僕ら兄妹が生まれ育った場所だ。昨年の5月に母が亡くなり、妹と「しばらくこのまま置いておこう」ということになっていたのだが、妹の知人家族が、ぜひ、ここに家を建てたいと言ってくれたので、お譲りすることにした。

今年の1月に1週間程度、家財の整理で実家に籠り、両親の遺品の中からいくつかの品を頂いてきた。妹も同じことをして、残ったものは友人の古物商やリサイクルショップで引き取ってもらった。

そして先月(4月)に実家は取り壊されて、更地になった。

 

 

よく陽が当たり、風が通るいい土地だった。
親父の転職のため50歳から65歳まで熊本で過ごした両親は、退任後、最期の住処として、自分たちで建てたこの横須賀の家に戻り晩年を過ごした。

 

僕らが生まれ育った頃は、遠くに富士山と海を望み、周りは田圃や畑という典型的な田舎の風景だった。その後、田圃は埋め立てられ家が建ち並び、大型マンションが建設され富士山は見えなくなった。僕にとっては建物こそ、当時のままだが、周辺の環境が一変し「あそこに戻りたい」という想いはなくなっていった。

ずいぶん前にそのことを妹夫婦と話したことがある。

妹も全く同じ想いだったようで、兄も妹もそれぞれ畑の中に自宅を構え現在に至る。

今、僕が沖縄本島の南の端っこで田舎暮らしをしているのも、ここで生まれ育ったからに違いない。

これから男ばかりの4兄弟を持つ若い夫婦がここに家を建てる。

たぶん、もうここに来ることはないだろう。

僕らがそうだったように「次の家族がここで育ったことを良かったと感じることができるといいね。」と土地に挨拶をして、残土の表面に突き出ていた水色のタイルを沖縄へ持ち帰った。

 

東北や輪島の人々の中には、戻りたくても戻れない人々も多い。

育った場所や環境は、人に大きな影響を与える。

戻るにしても、新天地を求めるにしても、現在の年齢をベースに「これから」を考えるのだろう。

大切にしてきたもの、大切にしていきたいもの。

選択はそれぞれの人の価値観だ。

その選択さえ与えられないのが、ウクライナやガザの人々だ。

誰もが幸福を、そして大切にしてきたいものを選択できる世の中になってほしい。