先日、ドラフト会議がありましたね~。
12球団一、ドラフトに恵まれないといわれているオリックスも、今季は有力な選手の方々に交渉権を得たそうです。
私が今夏の高校野球で一番応援していた、あの仙台育英の佐藤世那くん(彼の命名の由来は、ロンバケの木村拓哉さんからだそう!)も、6順目でオリックス単独指名だったとか
気になって気になって、サロンの帰りにスマホでニュースを見ながら、なんだかものすごくうれしくて、真っ暗な空を見上げました
その頃、父方の叔母が危篤だったことを、私は何も知りませんでした・・・。
叔母さんのお通夜とお葬式は、週末、しめやかに身内だけで執り行われていました。
私の父と母も、出棺にだけ参列したそうですが、その後はすぐにおいとましたそうです。
私がそれを知ったのは、お葬式のあとの昨夜のこと。
たまたま、実家に電話をした時のことでした。
叔母さんの病気は、筋萎縮症。
20年もの間、叔母と疎遠だった父も、叔母の病気のことを知らされていませんでした。
私もその20年の間、叔母には会っていませんでした。
私の結婚式と披露宴にも招待したけれど、叔母さんは来てくれませんでした・・・。
もしかしたら、その頃にはもう、体調が思わしくなかったのかもしれません。
叔母から、葬儀が終わるまでは、姪や甥には知らせないで・・・、という遺言があったそうです。
(みんな、仕事や家庭で忙しいだろうから・・・)
叔母さんも、私たちに対する申し訳なさや、思いやりや、いろんな想いがあったのでしょうね。
でもそんなことは関係なく、最期の時は呼んでほしかった・・・。
叔母の訃報を、誰よりも遅れて知らされた時、そう思いました。
叔母と父のお兄さんである、私の叔父のことを、このブログをはじめた頃に綴ったことがあります。
現在でも、私と父がオリックスを応援する所以が、ここにあります。
おそらく叔母も、ずっとオリックスを応援していたんじゃないかな。
だからきっと、オリックスのドラフトがうまくいったことも、知ってるよね。
叔母への追悼の念を込めて、もう一度書き直して、今ここにすることにします。
(そのままコピーしようと思ったのだけど、あまりの文章の粗さでした・・・。)
それは、私が産まれるずっと前のことです。
それは、父がまだ二十歳そこそこの頃のこと。
父の兄、つまり私の叔父は、阪急電車の車掌をしていたそう。
叔父には、その頃息子が産まれたばかりでした。
ある朝・・・。
のちに、私の従兄妹になるその赤ちゃんを抱きながら、出勤前に叔父は叔母に言いました。
「なんか今日は、仕事行きたくないなあ。」
と。
勤勉な叔父がそんなことを言うことは、めったにないことなので・・・
叔母は、不思議に思いながらも、いつものように叔父を送り出したそうです。
そしてその日。
阪急電車の沿線で、大きな事故が起こりました。
乗客に大きな怪我をした人はいなかったけれど、その電車を運転していた叔父は、重傷を負いました。
その事故に、叔父の非はなかったそうですが、彼はこう言いました。
「乗客を全員先に救出してほしい。私は一番最後でいい。」
そして、乗客の全員が無事に救助されたその後。
叔父はやっと、最後の最後に病院に搬送されました。
手遅れでした。
病院の先生は、こうおっしゃったそう。
「あともう10分、いや、5分早く助け出されていたら、助かっていたかもしれません。」
生前の叔父は、阪急ブレーブスの大ファンでした。
ずっとずっと応援していたのに、叔父が生きていた頃は弱かったようです。
そんな阪急が、叔父の亡くなった翌年に、初リーグ優勝しました。
そこからずっと、父は叔父の代わりに阪急を応援しはじめました。
その後、阪急ブレーブスという球団は、オリックスに買収され、1988年に姿形を変えました。
阪急電車に勤めていた叔父と、オリックスという球団をつなぐものは、何もなくなってしまいました。
けれど、たとえ名前が変わっても、父がずっと応援し続けているのは、叔父の愛した球団に変わりありません。
いろんなことに文句をつけながらも、父がオリックスの試合結果をちゃんとチェックしていることを、私も母も知っています。
今年は残念な結果だったけど、来季はどうなるのかな・・・。
ドラフトで有力な選手も入ってくれそうだし、期待したいところ
叔母さんも、きっと見守っていてくれるよね。
兄姉のいなくなった父に、生きる希望を与えてくれる一年になるといいな、と願って。