『生存するMLB最高の野球選手』




 そんな表現を見たのはたしか、ストライキで夏にシーズンの終わった1994年のこと、その雑誌には『The Pride of Baseball, Ted WILLIAMS』という特集記事が載っていて、そのあとにはMLBの歴史を彩る錚々たる名選手が紹介されていた



 記事では『その称号』は、

【ジョー・ディマジオ】だった。



1914年11月25日生まれ、この年で80になる。
ニューヨーク・ヤンキースの背番号5️⃣
優れた打撃に華麗な守備、隠しきれない華やかさに紳士的振る舞い。マリリン・モンローとの結婚。
13年の現役は怪我との戦いでもあったが、空前絶後の56試合連続安打に、ヤンキースタジアムの深い左中間を守り続け、首位打者/本塁打王/打点王にMVPも二回ずつ。

ちなみに、このディマジオさえ上回るであろうレジェンドふたり(ヤンキースの3️⃣と4️⃣)は、だいぶ早く、だいぶ若くして鬼籍に入っている
ベーブ・ルース:1895-1948、53歳没
ルー・ゲーリッグ:1903-41、37歳没



 そんなジョー・ディマジオが亡くなったのは1999年3月8日のこと、84歳だった。そうなるときっと続くのは、特集記事の主役である『MLB最後の規定4割打者』テッド・ウィリアムズに決まっている。



 テッド・ウィリアムズは2002年7月5日に83歳で亡くなった。よって現存する4割打者はいなくなり、今なおいない。続くのは同時期にもう一方のナショナル・リーグで活躍した最高の、『ザ・マン(男の中の男)』と呼ばれたスタン・ミュージアルであろう。首位打者7回に打点王2回、MVPは3回受賞。3026試合は7位、3630安打は4位、6134塁打は3位。1920年11月21日生まれ、2013年1月19日没、92歳。





 さてこのあとは少し若返る。おそらく兵役を全盛期である時期に迎えてしまう時代背景もあろう。『存命ならば』候補のひとりとなり得たのはヤンキースのミッキー・マントルであった、と思う。ルース▶︎ゲーリッグ▶︎ディマジオ正しくの後継者ともいうべき存在だが現役時代からの不摂生が祟り1995年8月13日に63歳で世を去っている。
 ということで、このマントルと同い年で同じニューヨークで同じ中堅手として人気を二分した【史上最高の万能選手】ことウィリー・メイズになるだろう。ニグロリーグにも所属し、現役序盤での兵役にもかかわらず、通算660本塁打を記録。3000試合以上に出場して通算打率は3割を越え盗塁数は300を越える。本塁打王と盗塁王を4回ずつ獲得、ここにゴールドグラブ賞12回、オールスター出場20回と華やかな記録が並ぶ。




 さて、そのウィリー・メイズがこの6月18日に亡くなった。1931年5月6日生まれ、93歳没。『コンプリート・プレーヤー』と呼ばれた選手が世を去り、果たして




【生存するMLB最高の野球選手は誰か】





たとえば、
【ハンク・アーロン】がいた。
【フランク・ロビンソン】がいた。
【ブルックス・ロビンソン】がいた。
この三名は既に鬼籍に入ってしまった




はたまた、
【カール・ヤストレムスキー】か。
【レジー・ジャクソン】か。
【マイク・シュミット】か。
どうですか?



でもね、ここではこの選手を紹介してみたい。



"The Left Arm of God"

サンディ・コーファクス(1935年12月30日生まれ、88歳)である。

 今や日本でいちばん知られる『ロサンゼルス・ドジャース』の初めての黄金時代、1950〜60年代にに君臨した大エース。同じナショナル・リーグのみならずワールド・シリーズでのみ戦うアメリカン・リーグの強打者たちの前に立ちはだかった。
 ただし現役は1955〜66年と短い。
391試合 2324.1投球回 2396奪三振
165勝87敗 防御率2.76 勝率.655

「なあ、今日は楽に投げてみないか。速い球で押しまくるんじゃなくて、カーブやチェンジアップを増やしたりしてさ」1961年スプリングトレーニングのひとことで覚醒。翌1962年には投手有利とされるドジャースタジアムが開場する。

1963年、ワールドシリーズ制覇。
25勝5敗 防御率1.88 奪三振306 完封11
シーズンMVP、ワールドシリーズMVP、サイ・ヤング賞

1964年、8月16日を最後に故障者リスト入りも
19勝5敗 防御率1.74 奪三振223 完封7

1965年、ワールドシリーズ制覇。
26勝8敗 防御率2.04 奪三振382
335.2投球回27完投
ワールドシリーズMVP、サイ・ヤング賞

1966年、ワールドシリーズ出場。
27勝9敗 防御率1.73 奪三振317
323投球回27完投5完封 サイ・ヤング賞

 ワールドシリーズは四連敗で終了、そして11月18日、登板過多による左肘の故障を理由に30歳で突如引退を発表する。引退の理由を「お金よりも大事なものがある」「野球を辞めた後も続く長い人生を健康な身体で送りたい」と語った。医師からは「このまま投げ続ければ、日常生活にも支障が出る」とまで言われたという




 現役最後の四年間では、ただでさえすごい成績がさらにものすごいことになっている。
【1963〜66年】
153試合登板150先発
1192.2投球回 自責点246 奪三振1228
97勝27敗 勝率.782 防御率1.86



もちろん、有資格初年度に野球殿堂入り。
36歳は最年少である