主の平和をお祈りいたします。日本オリベットアッセンブリーです。🕊️
現代の子どもたちは、スマートフォンの画面の向こうに広がる、人工知能(AI)やデジタルテクノロジーが形づくる「もう一つの世界」の中に生きています。親が隣の部屋にいる間にも、AIは文句も言わず、子どもたちの問いに答え、彼らの内面を静かに、しかし深く塗り替えています。
情報やプログラム、教会活動はかつてないほど溢れているのに、なぜ子どもたちの信仰は「言葉(知識)」だけにとどまり、「生き方(本質)」へとつながらないのでしょうか。
今回の「信仰と家庭コラム」では、インド福音同盟(EFI)の総務であるビジャイェシュ・ラル(Rev. Vijayesh Lal)牧師の、現代の教会と家庭の盲点を突くメッセージをお届けします。
AI時代という前例のない挑戦の中で、私たちが世代を超えて「生きたキリストの臨在」をいかに継承していくべきか、確かな指針を提示してくれるコラムです。すべてのクリスチャンのご家庭に、深い霊的な覚醒と知恵が与えられますように。
【翻訳記事】AI時代、私たちは子どもの中に真の信仰を育むため、これまで以上に奮闘しなければならない 第①編
先日、デリーのある教会で出会った父親が、十代の息子の口から、一度も「声に出して祈る姿」を見たことがないと話してくれました。その少年は教会で育ち、神学について語ることができ、聖書の物語もよく知っていました。しかし、教会から家庭へと至るどこかで、本来受け継がれるべきものが伝わっていなかったのです。父親が無関心だったわけではありません。ただ、その信仰の伝承がいつ行われるべきだったのか、そして誰がそれを行うべきだったのかが分からなかっただけでした。
このような話は、もはや珍しいものではありません。むしろ、日常的に耳にするようになっています。
現代の教会が直面しているのは、「活動の危機」ではなく、「信仰伝承(継承)の危機」です。信仰は多くの家庭や教会に存在し、教えられ、祝われ、守られています。しかし、それがかつての世代のような深さと継続性をもって、イエス・キリストとの個人的で生きた関係として、次の世代へ受け継がれていないのです。
かつては、世代を超えて比較的自然に受け継がれていたものが、今ではかつてないほど意図的な取り組みを必要としています。私たちが問われているのは、「信仰が教えられているか」ではなく、「生きた信仰が受け継がれているか」ということです。
キリスト教の歴史の大部分において、信仰は生活そのものを通して受け継がれてきました。聖書が「家に座っているときも、道を歩くときも」と語るように、子どもたちは教えを聞くだけではありません。親が困難や希望について語る姿を見聞きし、神に守られた家庭の日常を共に生きる中で、信仰を自然に「吸収」してきたのです。教えという言葉は、生活がすでに語っていたことを明らかにする役割を果たしていました。
その流れが止まったわけではありません。しかし、今はかつてない形で妨げられるようになっています。しかも、その妨げは家庭の外ではなく、家庭の内側で起きています。子ども自身が自ら進んで関わり、多くの親が十分に把握できていない「形成環境」を通して生じているのです。
私たちは今、親がすぐ隣の部屋にいても、静かに、個人的に、そして瞬時に応答しながら子どもの内面を形づくっていく「目に見えない存在」と向き合う、歴史上初めての世代なのです。
今日の子どもたちは、複数の世界の中で育っています。家庭、地域、教会という目に見える世界。そして、その傍らを走り、ますます日常の中へ入り込んできている、デジタルや人工知能(AI)によって形づくられるもう一つの世界です。
この世界は、他に誰も相手をしてくれないときでも、子どもの声に耳を傾け、すぐに応答してくれます。苛立つことなく答え、子どもが何に興味を持つのかを学習し、静かにそれをさらに差し出します。それは単なる気晴らしではありません。時間をかけて、子どもの人格や価値観を「形成」していくのです。
子どもが何に注意を向けるかは、やがて何を願い、どのように世界を理解し、「何が真実で、自分はどこに属するのか」という静かな感覚を形づくっていきます。
こうした形成の多くは、今やプライベートな空間で、デバイスとの静かな対話を通して行われています。そこでは問いが発せられ、答えが返され、誰にも気づかれないまま、少しずつ心の中に印象が刻まれていくのです。
多くの家庭では、子どもたちが親や牧師と深く語り合う時間、あるいは応答がすぐには見えず、ときに神秘的に感じられる神へ祈る時間よりも、スクリーンと真剣に向き合う時間のほうが長くなっています。
もちろん、こうしたデジタルツールが聖書を届け、信仰についての率直な疑問に答え、牧師のいない地域の子どもたちへ福音を届けるために用いられることは事実です。それは大切であり、感謝すべきことでもあります。
しかし、本当の問題は、そうしたツールに価値があるかどうかではありません。人間の声や神の声に耳を傾ける前に、人工的な声に頼ることに慣れた子どもが、「生きられた現実としての信仰」を信じられるように育っているのか、それとも信じにくくなるよう形づくられているのかということです。
ツールを利用することと、ある「臨在」によって人格が形づくられることは、まったく別のことです。教会が今、学ばなければならないのは、この違いです。
次の世代が「何にも形づくられない」ままでいることはありません。彼らは必ず、何かによって深く形づくられます。
唯一の問いは、その形成が、キリストにしっかりと結ばれ、互いに責任を負い合う生身の関係の中で起こるのか、それとも適応力が高く、説得力を持ちながらも、誰にも責任を負わないデジタルの影響力によって起こるのかということです。
今日では、牧師や宣教師の子どもたちの中にも、単に信仰から離れただけではなく、長年にわたってデジタル空間に静かに没頭する中で、「親の信仰は真実ではない」だけでなく、「有害ですらある」と信じる世界観を、一人で築き上げてしまった若者たちがいます。
彼らは無関心なのではありません。むしろ、深い確信を抱いているのです。そして、その確信は、親が安全だと思っていた家庭の中で、誰も深刻に受け止めないまま育まれてしまった「声」によって形づくられました。
そのような家庭では、神が、子どもにとって日常的に経験する権威主義的な存在と重なってしまうことがあります。これは本質的には神学の問題ではなく、「関係性の問題」です。そして、その始まりは誤った教理ではなく、「不在(関わりの欠如)」にあります。だからこそ私たちは、日々の生活の中で子どもたちと共に歩み、信仰を生きて示し、関わり続けるために努めなければなりません。
しかし、この危機には、さらに見えにくく、名付けにくいもう一つの姿があります。それは、教会を離れることなく礼拝にも出席し、恵みや召命、神の臨在について流暢に語ることができるにもかかわらず、その日々の生活や会話、友人関係、そして人生の選択が、信仰を持たない人とほとんど変わらない若者たちです。信仰の言葉は残っていても、信仰の世界観は失われているのです。
彼らの願いや恐れ、そして「人生は何のためにあるのか」という根本的な感覚そのものが、告白する信仰ではなく、自分たちが生きる時代によって形づくられてしまっています。
ローマの信徒への手紙12章で、パウロは「心を新しくして造り変えられなさい」と勧めています。この言葉は、信仰とは既存の人生に教理を付け加えることではなく、人生の土台そのものを新しく造り変えるものであることを前提としています。その刷新が起こらないとき、若者たちが持つ信仰は、生き方ではなく、単なる「宗教的な言葉」になってしまうのです。
これは情報不足の問題ではありません。彼らは十分すぎるほど多くの情報を受け取っています。問題は「形成」の不足です。与えられた信仰が、自分自身の生きる信仰にならなかったのです。
こうした葛藤そのものは、新しいものではありません。どの時代の若者も、友人からの圧力、アイデンティティの揺らぎ、欲望の誘惑、人間関係の難しさに直面してきました。それは、この時代特有の道徳的崩壊ではなく、壊れた世界に生きる人間が共通して負う重荷です。
変わったのは葛藤そのものではありません。それに向き合うための「内なる土台」が弱くなっていることです。信仰が真に受け継がれるとき、それは葛藤を取り除くのではなく、そのただ中でも揺るがずに立ち続ける足場を与え、その足場の上で共に立ってくださるキリストを信頼する力を育みます。その「信仰による足場」が、今、かつてなく薄くなっているのです。
(第②編へ続く)
※本記事は、インド福音同盟(EFI)の総務であり、月刊誌『AIM』の編集長であるビジャイェシュ・ラル(Rev. Vijayesh Lal)牧師による寄稿文(Christian Daily掲載)を翻訳・編集したものです。
🔗 英語原文はこちら:
https://faithnfamily.org/in-the-ai-age-we-must-work-harder-to-form-authentic-faith-in-our-children/