AI技術が急速に発展する時代に、私たちは子どもたちの魂をどのように守るべきでしょうか。創世記の蛇のように忍び寄るAIの危険性と聖書的な識別力、そして家庭が取り戻すべき真の交わりについての霊的な警告を、日本オリベットアッセンブリーがお届けします。
主の平安をお祈りいたします。日本オリベットアッセンブリーです。🕊️
今日、人工知能(AI)は教育、医療、行政をはじめ、私たちの生活のあらゆる領域に深く入り込み、「革新と進歩」の名のもとに急速に広がっています。特にデジタル文化に慣れ親しんだ次世代の青少年たちは、AIを単なる検索ツールとしてではなく、悩みを打ち明けたり、自らのアイデンティティを探ったりするための身近な存在として受け入れつつあります。
しかし、私たちはここで問いかけなければなりません。「便利さと進歩という仮面の背後に、霊的な危険が潜んでいないでしょうか。」
今回の「信仰と家庭コラム」では、16年間にわたり教育の現場に携わり、牧師としても仕えてきたグレッグ・カイル(Greg Kyle)牧師のコラム「機械の中の蛇に警戒せよ(Beware the Serpent in the Machine)」を、日本オリベットアッセンブリーが翻訳・編集してご紹介します。
「悪しき者たちの道に入るな。悪人たちの道を行ってはならない。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。」(聖書 新改訳2017 箴言4:14–15)
エデンの園で蛇が、偽りの知識と神から離れた自律を約束して人類を誘惑したように、今日のAI技術もまた、青少年の思考や信仰、さらには聖霊の御声に取って代わるものとなり得ます。本コラムは、こうした現代的な課題に目を向けながら、AI時代において私たちが何を警戒し、何を信頼すべきなのかを問いかけます。
この文章を通して、私たちがAIをめぐる時代の変化をただ恐れるのではなく、聖書に基づく識別力をもって向き合い、子どもたちと家庭を世俗的な誘惑から守るとともに、主の真理と愛のうちに次の世代を堅く育んでいくための、霊的な契機となれば幸いです。
【翻訳記事】機械の中の蛇に警戒せよ 第①編
政府から医療機関まで、企業の会議室から家庭の寝室に至るまで、人工知能(AI)は、もはや聞き飽きてあくびが出るほど語られている一方で、私たちがようやくその実態を理解し始めたとも感じるテーマの一つです。近頃では、そろそろAIを積極的に受け入れるべき時が来た、という声もますます多く聞かれるようになりました。
AI――教育と学びの未来なのか?
英国の元教育大臣ブリジット・フィリップソンは、AIを「乗り遅れてはならない革命」と表現しました。そして最近、私はIRISという存在を知りました。これは、南アフリカ初のAI搭載型教育・個別指導ロボットです。同国教育省のムボンギセニ・マジブコ副局長は、これを教育と学習の未来として高く評価しています。
「私たちは教師たちがこうした技術に対応できるよう備えなければなりません。そして教育省として、IRISを受け入れます」と彼は語りました。
AIを取り入れようとするこの絶え間ない動きを目の当たりにしながら、私は、そうした世界が実際にはどのようなものになるのか、考えずにはいられませんでした。
同時に、私は歴史上のある別の時代について思いを巡らせるようになりました。世俗的で革命的な政府が、教会からすべての鐘を取り外し、生命と人間的なつながりの象徴を奪った時代です。鐘は人々を教会へと招き、信仰と価値観へと呼び戻す役割を果たしていました。それは、人々を魂の糧となる霊的な養いへと招く音でもあったのです。
当時の人々が、鐘を取り除く行為を「精神の腐敗」と評したのも不思議ではありません。しかし注目すべきなのは、こうした新しい思想と明白な介入が、「平等」「自由」「進歩」という、一見すると無害に思える標語を掲げてやって来たことです。
AIがなくなることはないでしょう。それは疑いありません。
しかし、だからこそ、それを受け入れると決める前に、識別することが必要です。
歴史上の類似した動きと同じように、AIもまた、「進歩」や「自由」という高揚感に満ちた旗印のもと、静かに入り込んできます。特に、多くの点でAIがいまだ生まれたばかりの未知の道具であることを考えれば、これを受け入れる前には、真摯な識別が必要です。そして、その暗い側面が思春期の若者たちに及ぶ可能性を考えるなら、なおさら慎重な見極めが求められます。
私たちが自ら造り出す神々
「悪しき者たちの道に入るな。悪人たちの道を行ってはならない。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。」(聖書 新改訳2017 箴言4:14–15)
AIが及ぼす影響は、認知的な領域だけにとどまりません。
10代の若者の30%が毎日AIを利用し、その半数以上がデータの編集や整理のためにAIを使っています。AIを常用することで、考える人になる前に「編集する人」が生み出されてしまいます。情報は集められ、ざっと読み取られ、変更され、あるいは自分に都合のよい形になるまで整えられていきます。
このように、AIがほとんど無限ともいえる可能性を持ち、さらに10代の若者のおよそ3分の2がAIによって提供される情報を信頼していることを考えれば、その影響は単なる認知の問題ではありません。それは若者の内面深くにまで入り込み、彼らの霊性や信念、そして最終的には、真理をどのようなレンズを通して解釈するのかということにまで関わってくるのです。
自ら選択する主体性が、便利さを求める衝動に置き換えられていきます。
ある上級学年の生徒とAIについて話したときのことを、私は覚えています。彼はこう言いました。
「もう自分では考えません。AIが僕の代わりに考えてくれるから。」
このような会話は、何が真実なのかを問い続ける若者の力と意志を、AIが損なう可能性を示しています。自ら選び取る主体性は便利さを求める衝動に置き換えられ、情報はファストフードのようになり、真理までもが何の苦労もなく皿の上に載せられて出てくるようになるのです。
しかし、若者たちが自分で選んでいないのであれば、誰か別の者が彼らのために選んでいるということです。
「人気と利益」に突き動かされるAI企業が、人々の選択を左右するなら、その行き先は、健全で安定した、神のみこころにかなう価値観から遠く離れた世界になりかねません。OpenAIのサム・アルトマンは、10代の若者がチャットボットに助言を求めることを「クール」だと捉え、「彼らは何をすべきかChatGPTに尋ねずに、人生の決断をすることはほとんどありません」と語りました。
先ほどの私の生徒は、その一例と言えるでしょう。しかし、このような軽妙で無頓着にも聞こえる発言と、AIはうまく機能する時もあれば、そうでない時もあるというアルトマン自身の認識を合わせて考えるなら、若者たちを守りたいと願う者には、真剣な保護と見守りが求められます。
しかし、AIは大きな決断について助言を与えるだけではありません。AIは判断を先回りし、無数の選択肢を差し出します。たとえば、自らの性やアイデンティティについて探り始めたばかりの10代の若者が、一人で向き合うべきではないような選択肢までも提示するのです。
考えてみてください。好奇心旺盛な10代の若者が、GoogleのAIプラットフォームに性について質問したとします。すると、やがて「Roo」というサイトへ導かれます。著者の見方では、多感で影響を受けやすい若者にとって、到底ふさわしいとは言い難いサイトです。
色鮮やかなキャラクターたちの大きな笑顔に迎えられ、まず「私たちは何も共有しません」と安全性を約束されます。つまり、何でも尋ねてよいというわけです。しかし、カーソルを置くと、次々と刺激的な質問候補が表示されます。比較的穏当な例を挙げるなら、「初めて性行為をするのに適切な年齢は何歳ですか?」といったものです。
これは単に質問に答えるサイトではありません。むしろ、新たな質問そのものを生み出すサイトでもあります。「この言葉はどういう意味なのか?」「それをするとはどういうことなのか?」「では、女の子が男の子でもあり得るということなのか?」――次々と新たな問いが生まれていきます。
著者は、そこから性的な混乱や、神のみこころから離れた方向へと進む道が、際限なく開かれ得ると警告します。
健全な助言の代わりに残るのは、平安ではなく、疑いと恐れだと著者は述べます。若者たちは、性の聖さが取り去られ、それが二人の成熟した人格の結びつきではなく、単なる二つの対象の間で交わされる軽い契約のように扱われる世界へと導かれていきます。そのような世界では、人間が目的を達成するための手段となり、「彼」と「彼女」は人格ではなく、対象へと変えられてしまいます。
子どもたちの最善を心から願う、善意あるチャットボットはほとんどない――著者はそう警告します。
ところが悲しいことに、この段階まで来れば、Rooのようなサイトはすでに目的を果たしているのかもしれません。目を引き、脳を刺激しさえすれば、あとは好奇心旺盛な10代の心が自ら先へ進んでいくからです。
著者は、このようなサイトの存在は、子どもたちの最善を願いながら、まるでロボットの尻尾を振っているかのような、純粋な善意だけで作られたチャットボットが当然に存在するわけではないことを示している、と論じます。
その後、私はこの点についてさらに確かめました。サイトを離れる際、Rooが、人間の性について特定の立場を持つ著名な団体によって支援されていることを知ったのです。
(第②編へ続く)
🔗 英語原文はこちら:
https://faithnfamily.org/beware-the-serpent-in-the-machine/