(新潮社、1994.6.10/1995.8.25. 第2刷)
ただ今、吉田健一にハマっています。
今ごろ、ないし今さら
という感はありますけど
平凡社ライブラリー版の
『余生の文学』を新刊で買って読み
その後、塾の仕事の帰り
武蔵溝ノ口駅ビルで
『本が語ってくれること』を
初版オビ付で見つけて買ってしまい
さらには新宿の紀伊国屋書店にて
小口にヤスリがかかっている
『吉田健一随筆集』初版オビ付を見つけ
買うに至ってのち
収集癖に火がつきました。( ̄▽ ̄)
新潮文庫版の『シェイクスピア』を
裸本で持っているにもかかわらず
平凡社ライブラリー版の
『シェイクスピア/シェイクスピア詩集』を
古本で購い
さらに講談社文芸文庫版で
オビ付にこだわって
揃えようとしている始末です。
『吉田健一随筆集』は
彌生書房から出ていた
『現代の随筆』の第30巻で
「余生の文学」も入っており
結局、2回読む羽目になりましたが
2回も読めば、あの文体も
なんとなく親しみが湧き
なんとなく意味が分かってきて
なんとなく心に響く
という感じでしょうか。( ̄▽ ̄)
冒頭に写真を掲げた
『吉田健一集成』別巻は
講談社文芸文庫に載っている年譜の
ベースを遡りたくて
購入したものです。
多くの文庫本のテキストで
底本として使われている
集英社版全集の補巻に収録された
清水徹編の年譜
(全ての年譜の大基の年譜)は
近所の大学図書館にあったので
ちゃっかりコピーしてきましたし。(^^ゞ
ところがなんと
その近所の大学図書館には
新潮社版集成が入っておらず
〈日本の古本屋〉を見ていると
再版(2刷)だからなのか
新刊時の半値以下のを見つけたので
購った次第です。
そしたらそしたら
平凡社ライブラリーで読める
『シェイクスピア詩集』も
入ってたりしたのはともかく
吉田健一も書いていた
複数の執筆者による匿名コラム
『東京新聞』の「大波小波」欄の
吉田健一の匿名だと判っている分が
まとめられていまして。
たまたま少し前に
国会図書館でマイクロを繰って探し
コピーしてきたばかりのものが
吉田健一執筆分だったので
まとまっていたことに
がっかり、もとい w
驚くと同時に感動しました。
新潮社版集成は
オビの代わりでしょうか
一般的な紙カバーの上に
全面を覆う形で
ビニールカバーがついてます。
ビニールカバーの上に
一般的なオビに書かれている
惹句が印刷されているという
ちょっとお洒落な装丁。
紙カバーの方の装画は
柄澤齊[からさわ ひとし]
装幀は新潮社装幀室です。
柄澤齊という名前に
覚えがあるなあと思っていたら
ミステリ長編『ロンド』(2002)を
書いた人でした。
(小説の内容については
記憶の彼方ですw)
今度購った別巻は
530ページ近くあるので
まだ全部読み切れてません。
普通の単行本より
ちょっとだけ大きいサイズで
しかも530ページ近くもあると
布団に寝っ転がって読む
というのも難しく
就眠儀式用には向きませんし。
ぼーっとしている合間に
100ページほどある匿名コラムを
拾い読みしていたところ
1952(昭和27)年当時の内容が
現代にも通ずるところがあって
ちょっと驚くと同時に
悲しくなってしまった次第です。
例えば『群像』で行なわれた
「戦前にあつたもののうちで
復活させたいもの三つを挙げる」
というアンケートを取り上げて
以下のように述べているところ。
どうでもいい昔の形式を復活させればもつと実質的なものも一緒にもどつて来ると考えるのも、別なこのごろの風潮の一つだ。しかし生活の安定や航空の発達は、例えば天皇の神聖をもう一度宣言して見たり、学校で修身を教えたりすることで実現できるものではない。むしろその間に何の関係もありはしないと言いたい。そしてこれが逆コースについて最も警戒しなければならないことなのだ。(p.113)
上記の引用は
復活させたいものなどないはずだ
と思ってアンケート結果を読んだところ
生活の安定と日本人による航空の復活
と河上徹太郎が答えているのを読み
自分も含め「復活は逆コースと
初めから決めて掛るこのごろの風潮」を
自覚ないし意識させられた
と書いた上での文章です。
「初めから決めて掛る」のが
適切ではないと言っているのは
いうまでもありませんけど
それはそれとして。
70年近く経つと
歴史は繰り返すのか
70年近く経っても
日本人は変わらないのか。
いろいろ考えて
ちょっと憂鬱になった黄昏時。
そんな気分になれるのも
歳をとって練れてきたから
なのかしらん。
練れてきたのなら
いいんですけどねえ。( ̄▽ ̄)