昨日は

ムジカ・ポエティカ発足40周年記念 [I]

〈受難楽の夕べ〉の公演を聴きに

久しぶりに目白にある

東京カテドラル聖マリア大聖堂まで

行ってきました。

 

演奏されるのは

オルランド・ディ・ラッソの

《聖ペテロの涙》と聞いていたので

(ムジカ・ポエティカのパンフだと「ペトロ」)

手元にある2枚のCDを探し出し

前日の夜、予習のため

聴いてみた次第です。

 

その2枚のCDというのはこちら。

 

ラッスス《聖ペテロの涙》フンガルトン盤

(アルファ・エンタープライズ

 HCD 12081-2、1987.4.25)

 

リリース年月日は

CDジャーナルによります。

 

らっすす《聖ペテロの涙》ナクソス盤

(香 NAXOS: 8.553311、1995.9.25)

 

リリース年月日は hont によります。

 

いずれも作曲者名が

「ラッスス」となってますけど

これは「ラッソ」と同人です、

念のため。

 

 

当日は少し早めに出ましたが

新宿で途中下車して

紀伊国屋書店と

ディスクユニオンに寄ったので

着いた頃には

とっぷりと暮れており

大聖堂の屋根近く

月が鮮やかに輝いてました。

 

東京カテドラル聖マリア大聖堂(2024.3.22)

 

公演は

《聖ペテロの涙》だけではなく

前半と後半に分かれての

2部構成でした。

 

まず前半では

ハインリッヒ・シュッツの受難モテット

《カンツィオーネス・サクレ》(1625)から

〈ご覧ください、御父よ、敬虔の極みにおられる御子を〉

〈御父よ、その方は罪もなく〉

〈向けてください、わたしの主なる神よ〉の3曲、

続いてジョヴァンニ・ガブリエリの受難モテット

《サクレ・シンフォニエI》(1597)から

〈おお、主イエス・キリストよ〉

さらにラッソのモテット

〈あなたの憤りがわたしを貫き〉が演奏され

ここで15分の休憩となりました。

 

ガブリエリのモテットの際

合唱団が二手に分かれましたけど

これは、ガブリエリが

分割合唱を前提とした

二重合唱曲を書いたことを

踏まえてのことでしょう。

 

 

後半で演奏された

《聖ペトロの涙》は

元にした詩から20節を抜粋し

節ごとに曲をつけ

最後に原詩とは別に

ラテン語の歌詞に曲をつけて

全21曲を7声部で構成しており

通しで演奏すると

およそ1時間ほどになる大曲です。

 

器楽の伴奏がつく場合もあるようですが

今回の演奏は、手許にあるCDと同様

器楽伴奏なしのアカペラで

歌われています。

 

ちょっと変わっているのは

「閑話休題といった趣き」の第5、6曲と

ペトロの独白に当たる15〜20曲を

合唱ではなく1パート1人の

(7声部なので7人による)

ソロ・アンサンブルで

演奏されている点でした。

 

上掲のナクソス盤が

1パート2〜3人で歌われており

それを彷彿させるような感じで

演奏者が少人数であるためか

旋律がクリアに聴こえるような

そんな気がされたことでした。

 

 

ルネサンス時代の多声音楽を聴くときは

歌詞を聴き取れることは少ないため

言葉を追っても仕方がないので

ただ響きに身を任せるしかないんですけど

今回は前半はそのようにして聴き

後半はプログラムで歌詞の意味を

確認しながら聴きました。

 

手もとのCDはいずれも

日本流通用のタスキ(オビ)が

付いているだけで

日本語対訳がついておらず

今回の公演パンフに

淡野弓子氏の私訳がついていたのは

たいへんありがたかったです。

 

ムジカ・ポエティカ〈受難曲の夕べ〉パンフ(2024.3.22)

 

それを見ながら聴いていると

第4曲でペトロが

キリストが自分を責めている

と感じていることが分かります。

 

でもキリストは

そんなふうに単純には

愛弟子の失敗を

責めたりしないんじゃないか

とか思ったりしました。

 

バッハの《マタイ受難曲》でも

痛切に描かれている

ペテロの否認のエピソードが

今回の曲のモチーフなわけですけど

全体的に原詩の詩人は

弟子が師を裏切った後ろめたさを問題にしており

恋する人が愛人に裏切られたときになぞらえて

師が弟子を責めているかのように

捉えているような印象を受けます。

 

でも

裏切った相手を責める恋人のように

キリストがペトロを責めている

と捉えるのは

キリストの卑小化ではないか

と思えてなりません。

 

ペトロはそのように捉えて

自らの失敗を思い出すたびに

涙を流し続けたというのは

これは分かります。

 

キリストが

キリストと呼ばれるような

存在であるならば

そうしたペトロの弱さ

人間の弱さを暖かく受け入れて

許す方がそれらしい

という気がするのでした。

 

 

バッハの《マタイ受難曲》を

聴いていて思うのは

人間の卑小さを人間が自ら受け入れ

その卑小な人間をも許す

神の大いなる心に身を委ねる

という考え方が

ベースになっているのではないか

ということです。

 

人間は弱い

絶対こうすると思っても

しばしば失敗する、

そういう弱さを

自らが受け入れることによって

人間は他者とつながることができる、

それがペテロの否認というエピソードの

今日的な意義ではないか

と思っているんですけどね。

 

まあ、キリスト者ではない

東方の無心論者の

戯言かもしれませんけど。

 

 

そんなことを考えながら

聴いていたためか

1時間ほどの演奏なのに

あっという間に終わった

という気がした次第です。

 

教会での演奏は

残響が優れているので

1曲歌い終えるごとに

最後の歌詞の残響が残り

それがすごくいい感じでした。

 

アカペラ演奏というのも

その、すごくいい感じに

与っているような気がします。

 

 

演奏終了後は

今回の公演に誘っていただいた

河合塾の採点でご一緒することがある

出演者の方に挨拶して

会場を後にし

帰り着いたのは10時半ごろ

だったでしょうか。

 

演奏された皆さん

お疲れさまでした。

 

今回が[I]ということは

[ II ]もあるということで

次の公演も楽しみにしています。