あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。

 

 

2012年1月から恒例の

その年の干支に合わせた読書ですが

今年は仕事で長編を2作品3冊

(1作品は上下本だからです)

読まねばならなくなったので

お正月に干支がらみの本を

のんびり読んでいる時間がなく

短編で済ませることにしました。

 

で、虎が出てくる短編ということで

ぱっとすぐ思い浮かんだのが

中島敦の「山月記」です。

 

 

「山月記」は最初

「文字禍」と共に

雑誌『文学界』の

1942(昭和17)年2月号に掲載され

同年7月に刊行された作品集

『光と風と夢』に収録されました。

 

初刊本では

〈古譚〉という章題? のもと

「山月記」「文字禍」に

「狐憑」「木乃伊」を加えて

まとめて収録されています。

 

初出誌も初刊本も

その複製本も(あるのかな?)

持っていないので

今回、目を通した

講談社文庫版の書影を

あげておくことにします。

 

『山月記・弟子・李陵』講談社文庫

(講談社文庫、1972.4.15/1972.4.16. 第6刷)

 

講談社文庫版には

〈古譚〉から

「山月記」の他に

「文字禍」と「木乃伊」が

収録されており

「狐憑」だけ未収録。

 

 

「山月記」を最初に読んだのは

高校生の頃に国語の教科書で

だったと思います。

 

おそらく

ほとんどの国語の教科書で

採用されていたのではないか

と思われますから

ほとんどの人が一度は

読んでいると思いますけど

どうでしょう。

 

 

高校生当時も

面白かった気がしますし

文芸部が使用していた副読本に

「名人伝」が収録されていて

面白かった記憶があります。

 

でも

ハマるというほどでは

ありませんでした。

 

 

その後、長じてから

アンソロジーだか何かで

「文字禍」を読み

これには感銘を受けました。

 

前後して、雑誌の

幻想文学特集だか何かで

中島敦が幻想文学としても

読めることを教えられ

悟浄もの二部作を探したり

(こちらは角川文庫に収録)

「光と風と夢」が

スティーヴンソンを

登場させていることを知って

探したりということをしているうちに

(新潮文庫版を古本で見つけました)

最終的には、ちくま文庫版の

3巻の全集を購入するに至ります。

 

『中島敦全集』ちくま文庫版

(第1巻、1993.1.21 発行

 第2巻、1993.3.24 発行

 第3巻、1993.5.24 発行)

 

本が反っているのは

しまい方が悪かったためです。(T ^ T)

 

 

「山月記」は

中国は唐の時代に書かれた

「人虎伝」を素材としたものですが

オリジナルの方は未読。

 

……かと思っていたら

手元にある角川文庫版に

読み下し文が載ってました。

 

『李陵・弟子・名人伝』角川文庫

(角川文庫、1968.9.10. 改版初版

 /1986.5.30. 改版30版)

 

読んだ覚えがないんですけど。(^^;

 

 

高校時代に

どういう感想を抱いたか

授業でどういうふうに

教えられたのかも

記憶のかなたです。

 

今回、読み直して驚いたのは

虎になる李徴に妻子があり

「貧窮に堪えず、妻子の衣食のために

遂に節を屈して(略)一地方官吏の職を

奉ずることになった」(講談社文庫、p.7)

と書かれていること。

 

もうひとつは

虎になってからも

いまだに記憶して誦んでいる作品を

友人の袁傪[えんさん]が

書き取らせているとき

「漠然と次の様に感じていた」こと。

 

なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。(同、p.11)

 

後者については

国語の授業でも

問題になっていた気がしますけど

どう教えられたものやら。

 

おそらくは

芸術家としての矜持が残っており

まだ評価を期待しているところ、

自意識過剰で無心の境地ではないこと

等々というふうに

教わったのではないでしょうか。

 

もっとも

そういう「答え」にあたる文章が

李徴の独白を通して書き込まれており

その意味では学校の授業に

使いやすいテキストなんだろうなあ

と今になっては思いますけど。

 

でも、そういう

テキスト内に明示された答え探しは

文学の読みと関係のないことだと

今の自分は思う次第です。

 

 

ちなみに

詩を書きとらせた後

「今の懐[おもい]を

 即興の詩に述べて見ようか」

と虎の李徴が言い

掲げられている詩に対しては

特に袁傪の感想は書かれていません。

 

その即興の詩が

第一流の作品なのかどうか

ということも授業で

問題になったかもしれませんけど

なぜテキストの中に

書かれていないのかというのは

なかなか興味深いところです。

 

「どこか(非常に微妙な点において)

欠けるところがある」のかどうか

その判断は読者に委ねられており

読者によって解釈は異なるでしょう。

 

そういうところが

文学を読む面白さだと思いますけど

こういう論題もまた

二者択一に収束されてしまう

という危うさを孕んでいることには

注意が必要なんでしょうけれども。

 

 

と、いろいろと書いてきましたが

今の自分が好むのは

「文字禍」だったりします。

 

どことなく

G・K・チェスタトンにも

通ずるところが感じられて

(なぜでしょうね?)

ついでに再読したんですけど

「山月記」より感銘を受けました。

 

 

ところで

手元には新潮文庫版もあり

そのカバー絵は

講談社文庫版と同様

原田維夫[つぐお]の版画が

使われています。

 

『李陵・山月記』新潮文庫

(新潮文庫、1969.9.20/

 1978.6.15. 改版18刷/

 1978.12.30. 第20刷)

 

初版時からカバーが付いたものか

改版時にカバーも改版されたのか

詳しいことは分かりませんけど

改版されてから半月のうちに

2回も増刷されたことから

改版時に上掲のカバーが

付いたのではないかと想像されます。

 

新潮文庫版と講談社文庫版のカバーが

同時に店頭に並んだのかどうかも

分かりませんけど

連作になっていて面白いので

以下に並べてアップしておきます。

 

原田維夫・中島敦文庫カバー

 

新潮文庫は

李徴が虎に変化する過程で

講談社文庫は

袁傪と李徴が別れる場面

だろうと思います。

 

両文庫とも

「山月記」を題材に

虎が描かれているという点では

今年の干支にぴったりなのでした。