少し前から
古本でまとめて購入した
吉田秀和の昔に出た文庫本を
空いた時間を見つけては
目を通したりしています。
先日、読み終わったのは
音楽評論以外の仕事をまとめた
『ソロモンの歌』という本。
(朝日文庫、1986.10.20)
親本は1970(昭和45)年11月に
河出書房新社から刊行されました。
その時は
エッセイ全部が音楽評論以外
というわけにも
いかなかったようですが
文庫化にあたって当初の企画通り
音楽評論以外のエッセイだけを
まとめることができたそうです。
音楽評論以外といっても
そもそもが音楽評論家なので
音楽にまったく触れない
というわけでもなく
第5章に収録されている
「荷風を読んで」も、最初
「音楽的文明論――荷風を読んで」
という題名で発表されました。
第1章に収録されている
交流のあった文学者の回想や
絵画論を集めた第2章も
面白かったですけど
なんといっても面白かったというか
びっくりさせられたのは
上記の「荷風を読んで」でした。
自分は永井荷風の良い読者とはいえず
『濹東綺譚』くらいしか読んでないので
いろいろと蒙を啓かれたわけですけど
特に『断腸亭日乗』からの
以下の引用には、びっくりでした。
三月廿四日。……凡そこの度開戦以来現代民衆の心情ほど解し難きはなし。多年生活せし職業を奪はれ徴集せらるゝもさして悲しまず、空襲近しと言はれても亦更に驚き騒がず、何事の起り来るも唯なり行きにまかせて寸毫の感激をも催すことなきが如し。彼等は唯電車の乗り降りに必死となりて先を争ふのみ(朝日文庫、p.236)
上の引用部分は
昭和19年の記述からですが
令和3年となんら変わらない
という印象を受けたので
ちょっと衝撃的でした。
「荷風を読んで」が発表されたのは
1961(昭和36)年ですけど
吉田は上の荷風の文章を引いた後で
「敗戦後十五年をへた今日」でも
「日本人のある面を抉り出している」
「少くとも、私は自分自身に照らしてみて、
これを否定することはできない」
と書いています。
吉田がそう書いてから
さらに60年たったわけですが
ということは荷風の観察から
75年も経っているにもかかわらず
「日本人のある面を抉り出している」ことに
驚かずにはいられませんでした。
荷風の文章が
あまりにも印象的だったので
どうしても紹介しておきたい
と思った次第です。
今さらな感はありますが
荷風を読んでみたくなった次第。
ちなみに
『ソロモンの歌』に収録された
他のエッセイで
当方の心に突き刺さったのは
「荷風を読む」の引用箇所と比べると
まったく性質が異なりますけど
以下の部分です。
私は、本のすくない家に育ったためだろうか、むやみと本のたくさんある部屋とか住ま居には、肉体的に嫌悪を覚える。贅沢とまではゆかなくとも、ゆったりと場所をとってあったら、どうか知らない。しかし、たいていは、部屋中の壁が本でいっぱいだったり、その辺にごたごたと積み重ねてある図を始終みかける。そんな時、私には何だか、その部屋の主が、精神的にひどく貧寒とした人物に思えてくるのである。「ルンペン知識人」もし、こんな言葉があるなら、そんな感じである。金のない知識人が嫌いなのでない。質的な貧しさに鈍感で、そんなに知識ばかり求めて、どうするんだろう? と思ってしまうのである。(p.28)
これは
中原中也に連れられて
小林秀雄の家に遊びに行った際
本が少いことがすごく気に入った
と回想している箇所のすぐ後に
書かれていることです。
高校生の時に
詩人の吉田一穂の部屋を訪ねた時も
本が少ないのが魅力的だった
と書いています(p.36)。
巻頭の二つのエッセイで
そんなことが書いてあるものだから
愕然とさせられたものでしたが
それはともかく。
上で引用した箇所の
「質的な貧しさに鈍感で、
そんなに知識ばかり求めて、
どうするんだろう?」
という問いはそのまま
「荷風を読む」での論点に
つながっていくのでした。
解説で篠田一士がいうところの
「荷風を読む」に見られる
「悲劇性の重い苦さが」
本書では「一貫して」おり
読者が「それをわが事とする」には
最初から「順を追って読みつづけて、
はじめて可能となる」ことだ
という理路が
ブログを書くことで
腑に落ちた気がする次第です。
あと、印象的だったというか
蒙を啓かれたのは
クレーについてのエッセイでした。
こちらも
「荷風を読む」と同様に
引用されている
クレーその人の発言が
印象に残ったのでして
クレーの本や伝記を
読んでみたくなってきたりしたり。
こうしてまた
部屋に本が積み上がるわけで
ますますルンペン知識人への道を
極めていきそうな感じ。( ̄▽ ̄)
