角川文庫版『八つ墓村』ver.2

(角川文庫、1971.4.30/1974.7.30. 16版)

 

新派特別公演『八つ墓村』を観て

こんな話(動機)だったっけ

と思ったことは

先に書いた通りです。

 

ちょっと気になったので

『八つ墓村』を読み直してみました。

 

何十年ぶりかの再読になります。

 

ちなみに上掲写真のカバーは

初版時とは異なるもので

これでも杉本一文によるものですが

のちに映画化された際にだと思いますけど

さらに別のイラストに

(老婆の横顔と鎧武者に)なりました。

 

 

新派特別公演を観て

気になっていた真犯人の動機は

読んでいると

第一の殺人が起きる前に

思い出しました。

 

そこですぐさま途中を飛ばして

最後のページを確認することなく

最後まで読んでみた訳ですが

読んでいて、いろいろと

興味深い発見がありましたので

以下、備忘的に書いておくことにします。

 

直接的なネタ割りはしませんが

『八つ墓村』を書く際に

影響を受けたと思しい作品名を

あげたりしています。

 

未読の方もいるかと思い

以下、そうした作品名の部分は

反転文字で記しておきます。

 

 

 

『八つ墓村』を評価する場合

連続殺人のトリックばかり

前面に出ることが多いように思われますが

読み直してみると

動機の意外性という点にも

留意されていたのではないか

という気がしました。

 

本書のトリックないしプロットは

アガサ・クリスティーの

ABC殺人事件』を基にした

(と横溝正史が考えている)

坂口安吾の『不連続殺人事件』への挑戦だ

と解説にも書かれていますけど

それ以外に

エラリー・クイーンの『Yの悲劇』も

基になっているのではないか

と思うに至った次第です。

 

海外ミステリに詳しい人なら

「ああ、あれね」と

すぐ気づくでしょうし

誰かがどこかで、すでに

指摘していることかも知れませんけど

自分は寡聞にして読んだことがないので

備忘のために記しておく次第です。

 

あと、クリスティーの影響ということでは

ABC殺人事件』だけでなく

三幕の悲劇』なんかも

連想されたことでした。

 

横溝正史といえば

ディクスン・カーの影響ということを

いわれることが多いわけですけど

トリックやプロットは意外と

クリスティーやクイーンの換骨奪胎

ないしは引用が多いのでは

という気が改めてしたことでした。

 

 

あと「抜け孔の冒険」の章の出だし

(上掲の版だと205ページ)で

語り手である田治見達弥が

次のように書いています。

 

 この記録に筆を染めてから私がいつも不便に感じるのは、これが一種の探偵小説であるにもかかわらず、探偵のがわから筆をすすめていくことができないということである。ふつう一般の探偵小説では、探偵のがわから筆をすすめていくことによって、どの程度に調査が進行し、探偵が何を発見したかということを、読者に示すことができるのだ。そして、それによって、犯人や解決を暗示することができるのだが、この記録の場合記述者はいつも探偵のそばにいたわけではない。いや記述者が探偵のそばにいるのは、極く例外の場合に限るのだから、記録のすすんでいく過程において、警察がどの程度に、何を発見したかということを、ありのままに示すことができないのがほんとうなのである。

 しかし、それでは、謎を解こうとする読者にとっては不親切になるわけだから、たとえ、記述者がずうっとのちにいたって知った事実でも、必要と思えば、要所要所に記述していくことにする。

 それともうひとつ、この記録がふつう一般の探偵譚とちがうところは、記述者がすでに起こった事件のあとを追うのみならず、おのれ自身の身の上や、またその身辺にむらがる疑問を追及していかねばならぬことだ。(pp.205-206)

 

フェアな謎解き(犯人当て)を興味の中心とする

本格探偵小説を期待する読者への

サジェスチョンであるわけですけど

作中人物の辰弥が自分の経験を語るにあたり

読者の謎解きのために配慮する必要はないのに

配慮しようとしているところが

一種のメタ趣向で面白い。

 

こんな記述があるなんて

すっかり忘れてました。

 

 

ところでこの物語において

辰弥という人物は

里村典子を始め

多くの女性たちに助けられて

物語の最後まで乗り切っていきます。

 

例えば典子が優れた判断を示すと

女というものは云々

といった記述が散見され

女性たちに助けられて

うまくやっていける場面が多いのに

自らの男性性の枠組みを

抜け出せないキャラクター

という印象を強く受けました。

 

逆に典子や田治見晴代(義姉)はすごいです。

 

 

新派劇であれっと思った

鬼首村に関する発言ですが

上掲文庫版の129ページに

「なんでもこの向こうの鬼首村という村へ、

 事件の調査を依頼されて

 やって来たんですって。

 そのかえりに立ち寄って、

 しばらく骨休みをしていくんだという話よ」

という美也子の台詞があるだけでなく

作者註として「『悪魔の手毬唄』『夜歩く』を

参照されたし」とあるのにはびっくり。

 

『夜歩く』はともかく

『八つ墓村』が発表された時点で

また『悪魔の手毬唄』は

書かれていないはずですのに。

 

『夜歩く』は

これまたずいぶん前に読んだきりで

内容はまったく覚えておらず

鬼首村が出てきてたっけ

と思ったくらいです。

 

いずれにせよ

新派劇での鬼首村への言及は

少なくとも角川文庫版を

きちんと踏まえたものであることが

今回の再読で分かった次第です。

 

でも、上に引いた作者註って

初出誌(該当箇所は『新青年』)や

初刊本にはなかったはずで

いつから付くようになったのか

ちょっと気になってきました。

 

 

以上、長文深謝。

 

久しぶりに読んだわけですが

長い割には巻措く能わざるという感じで

さくさくと読めたのには

ちょっと驚きでした。

 

昔は

『獄門島』や『悪魔の手毬唄』に比べると

出来は今ひとつと思っていましたが

読み直してみて

その印象も変わりました。

 

やっぱり再読というのは大事ですね。

 

 

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