(文藝春秋、2019年3月25日発行)
昨日の記事にも書いた通り
体調が悪くて
採点をする気になれず
時間を持て余して手に取ってみたところ
面白くて、あっという間に
読んでしまいました。
3月に出た本を
今まで積ん読しといたのか
というのは
スルーしてくださいまし。(^^;ゞ
以前、こちらでも取り上げた
出版社に務める女性編集者が
仕事をする中で出くわした「謎」を
東京都は中野にある実家に住む
定年間近の国語教師である父親に話すと
たちどころに解き明かしてくれる
という設定の連作短編集
『中野のお父さん』(2015)の
続編になります。
先月、同じ作者のエッセイ集
『本と幸せ』を
(新潮社、2019.9.25)
これも遅ればせながら
読み終えたとこなんですけど
そこで書かれていたエピソードが
流用されている話もあり
おやおやと思った次第。
「縦か横か」に出てくる
主人公が担当している作家が
「大きな賞」(p.16)をもらい
受賞の挨拶をする場面があります。
そのスピーチのネタが
『本と幸せ』にも出てきました。
それだけではなく
当方の記憶が間違ってなければ
これは本書の作者・北村薫が
日本ミステリー文学大賞を
授賞した際のスピーチと
同じ内容ですね。
「水源地はどこか」は
松本清張の某作品にまつわる謎ですが
ここで言及されている短編も
『本と幸せ』に出てきてました。
メインとなる謎そのものは
松本清張と荒正人との論争をめぐるもので
まるで文芸評論のような内容に
感心するとともに
蒙を啓かれた感じがします。
「ガスコン兵はどこから来たか」は
太宰治の某短編に出てくる
「ガスコン兵」の由来・出典は何か
という謎を扱ったもので
これも勉強になった次第。
それだけでなく
その謎解きに使われた作品が
高校の時に国語の授業の教材となり
朗読させられたものだったので
ちょっと嬉しくなりました。
もっともガスコン兵の件りは
授業で扱った範囲に
出てこなかったんですけどね。
同様に
泉鏡花と徳田秋声との確執というか
喧嘩をめぐる謎を扱った
「火鉢は飛び越えられたのか」も
勉強になっただけでなく
作家の事跡を考証する
研究論文といってもおかしくない
内容のものになっています。
村松定孝先生も誤解している
という指摘には脱帽もの。
鏡花も秋声も
共に自分の郷里出身の作家だけに
興味深さもひとしおでした。
北村薫には
『六の宮の姫君』(1992)や
『ニッポン硬貨の謎』(2005)など
文芸考証ものともいうべき作品があります。
『ニッポン硬貨の謎』は
本格ミステリ大賞を
評論・研究部門で受賞していますから
文芸考証ものについて
評価が定まっているともいえるだけに
危なげがないというか
本職はだしといってもいいくらい。
(ここで本職というのは
大学の文学部の先生を
イメージしています)
普通はエッセイか評論の題材であるものを
一編の小説として仕上げてしまうことに対し
さすがは北村薫、と見るかどうかで
評価は変ってきますけれど
謎を見出すことと
謎を解き明かす行為に
重点を置くことによって
謎解きミステリの鉱脈を掘り当てた
ということは無視すべきではない
と考えるべきでしょう。
評論・研究部門で授賞するものは
評論・研究のスタイルで書かれているべき
と個人的には思っていますけど
それはそれとして
「水源地はどこか」と
「火鉢は飛び越えられたのか」には特に
脱帽させられた次第です。
「火鉢は飛び越えられたのか」は
徳田秋声記念館の
学芸員の協力を得ていますので
研究としてみても
かなり本格的ですね。
ちなみに
「『100万回生きたねこ』は絶望の書か」
に出てくる
神保町に事務所を持つ作家先生は
逢坂剛をモデルにしていると思われます。
西部劇を語らせたら一晩で終わらず
ギターはコンサートを開くほどの腕前
となれば、かなり確実かと。
同様に
「水源地はどこか」で
主人公が担当する作家が
清張をテーマに対談する相手は
「関西の方だった」(p.58)
とありますから、もしかしたら
有栖川有栖がモデルかも知れません。
北村薫と有栖川有栖による
清張をテーマとする対談が
『みうらじゅんの松本清張ファンブック
清張地獄八景』に
(文藝春秋・文春ムック、2019.7.17)
再録されていたのを見たばかりだったので
そう思いこんでいるだけですけれど。(^^ゞ
というふうに
ミステリ文壇の交友関係について
それなりの知識があると
さらに楽しめる本になっております。
そういうことに関心のない読者には
どうでもいい裏話かもしれませんけど
自分はニヤニヤしながら読みました。
(ちょっとイヤらしいかも。
すでに誰かがどこかで書いていたら
ごめんなさい)
ところで
「パスは通ったのか」には
古本や中古CDを買う人間なら
涙なくしては読めない謎が出てきます。
これも経験に基づくのか
それとも創作されたものなのか
気になるところですね。
個人的には
冒頭に入っている「縦か横か」で
主人公の父が尿酸値の検査に引っ掛かった
という挿話があって
おやおやと思ったり。
続いて入っている「水源地はどこか」では
健康的なことしてる? と尋ねられて
歩いていると答えた父親でしたが
「『100万回生きたねこ』は絶望の書か」で
目眩を起こして倒れてしまい
救急車で病院に運ばれる
という事態に至ります。
「まさか、救急車で運ばれるとはなあ。
……自分がこうなるとは思わなかった」(p.236)
という台詞は身につまされました。
巻末の「菊池寛はアメリカなのか」では
尿酸値の関係でお酒をとめられている父親が
久しぶりにビールを呑む場面があって
医者にお酒をとめていると応えると
本当かと驚かれたという話を聞き
主人公が「信頼されていないのか、
それほど重症ではないのか」(p.316)
と考えるシーンも出てきますけど
ここなんかも身につまされますねえ。
もっとも、自分には
心配してくれる子供なんぞ
いませんけど。
というふうに
父親の健康に関する記述が
編を追うごとに変化しているんですけど
ところが各編の雑誌の初出はバラバラで
「縦か横か」が2016年5月号
「水源地はどこか」が2018年6月号
「『100万回生きたねこ』は
絶望の書か」が2017年4月号
「菊池寛はアメリカなのか」が2018年12月号
というふうに前後しています。
巻末の初出一覧でそれを知り
あれれ? と思ったんですけど
初出順に並べてみても
「縦か横か」で検査結果が出てから
「『100万回……』は絶望の書か」で倒れて
「水源地はどこか」で
健康的なことをしているかと主人公が言い
「菊池寛はアメリカなのか」になると
酒を控えていることが分かるというふうに
矛盾しない流れになっています。
だから順番を入れ替えた
というより
入れ替えられたのでしょうか。
初出誌に当たっていないので
偶然なのかどうか分かりませんけど
入れ替えても差し支えないように
たまたま、なっていたのだとしたら
なかなかにすごいことだと思います。
もっとも
なぜ入れ替えたのかは
謎のままなんですけれど。
最後にちょっと気になった点を。
43ページに
缶詰になっている作家が
執筆が進むことに関して
「煮詰まっちゃっても困るけど、
走り過ぎるとそれはそれで気になるから」
と話す場面があります。
煮詰まるというのは本来
行き詰まるという意味では
使わないものだったと思うんですけど
今では許容されているのか知らん。
これは登場人物の台詞ですから
誤用をうるさく咎める必要も
ないのかもしれませんけど
気になるんだからしょうがない。