少し前に
金 承哲という大学の先生の
『遠藤周作と探偵小説——痕跡と追跡の文学』が
勉強会のテキストになったので
目を通す機会がありました。
(教文館、2019年3月30日発行)
遠藤周作の探偵小説系の作品は
以前、必要があって
まとめて読んだことがあるのですが
まだ作家デビュー以前のフランス留学中
小説作法の勉強のために
ミステリを読んでいたことは知りませんで
蒙を開かれた次第です。
留学中にもっぱら読んでいたのは
セリ・ノワール叢書に収録されていた
英米のハードボイルド系の作品だったようです。
留学中に書いた日記には
ダシール・ハメット
ピーター・チェイニー
ジェイムズ・ハドリー・チェイス
ホレス・マッコイという作家に混じって
ブルーノ・フィッシャーの名前があり
これには驚きでした。
1952年3月21日付の日記には
以下のように書かれています。
ブルノ・フィッシャの『サ・ト・ラ・クープ』を読了。非常に面白かった。これは、映画で見た「夜、街のねむる時」の作者だが、最後のしめくくりも大変いいし、スリルの使い方もうまい。ハメットのような投げやりがない。しかし、二月十一日にかいた、ぼくの探偵小説の方法は今迄よんだ、この種の本にはない。不可能なのであろうか。すると、その時、探偵小説とは読者の推理を托するのではなく(フィッシャも、最後に犯人を説明する)ただスリルをあたえるだけを目的とする事になる。(引用は講談社文芸文庫版『作家の日記』389ページから)
ここで言及されている
『サ・ト・ラ・クープ』Ça te la coup!(1950)は
『血まみれの鋏』(1948)のフランス語訳だと
『遠藤周作と探偵小説』には記されており
手許の資料でもそれが確認できたので
幸い、英語版から邦訳されたものを
持っていたことでもあり
読んでみることにしました。
(井上一夫訳、東京創元社、1957.10.5)
『現代推理小説全集』という叢書の第4巻で
本来はハコ入り・月報付きなのですが
手許には裸本しかありません。
それでもこういう時に
さっと手に取って読めたわけですから
買っておいて良かったと
つくづく思った次第です。
ある夜、主人公が帰宅すると
妻とその姉(主人公にとっては義姉)の
姿が見当たりません。
誘拐されたのかと心配している内に
乗り捨てられた自動車が見つかり
義姉の死体が発見されますが
妻の行方は依然として知れない。
地元警察があてにならない
と思った主人公は
妻が姉と共に
かつて女優だったころ暮らしていた
ニューヨークに向かいます。
そこで妻の暮らし向きや
妻が夢でうなされていた
「血まみれの鋏」が絡む事件のことを知る
……というお話。
ブルーノ・フィッシャーは
1960年代ごろを中心に
日本でも短編が訳されたりしましたが
長編の翻訳はこれひとつきりです。
主人公に対して警官たちが
「なぜ」という疑問を繰り出して
何が起ったのかを考えていくのは
面白かったのですけど
犯人当ての興味を中心とする
いわゆる本格ものではないため
事件は推理によってではなく
主人公の行動によって自然と解決に向かう
という展開を見せます。
本格ものとしてみたら物足りないですけど
サスペンスものとしてみたら上々で
犯人の正体も意外でしたし
若き遠藤周作も書いている通り
「最後のしめくくり」が印象的でした。
解説は植草甚一で
ちくま文庫から再刊された
『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』(1972)
にも再録されています。
解説の中で植草は
『血まみれの鋏』のような「構成技巧」を
「巡礼型(ピルグリメイジ・メソッド)」
と読んでいます。
それが、関係者の間を経巡る
というスタイルを指しているのなら
レイモンド・チャンドラーや
ロス・マクドナルドなどの
ハードボイルド・ミステリが
そもそも巡礼型だといえるわけで
それらにふれていないのは
ちょっと首をひねらざるを得ない。
とすれば
いわゆるハードボイルドにおけるスタイルと
植草のいう「巡礼型」との間に
違いがあるはずですけど
その違いが、解説を読んだだけでは
よく分からないのが
もどかしい限り。
植草が解説で言及している
クロード・ホートン Claude Houghton の
『クリスチーナ』(1936)の内容を踏まえるなら
「サスペンスで徐々に性格の謎をほごしていく」
というところにポイントがあるのかもしれず。
そう考えると『血まみれの鋏』は
失踪した妻の過去を
徐々に明かにしていく話だったわけですし
そのあたりが植草のいう「巡礼型」に
当てはまっているのかもしれません。
日本ではあまり受けが良くなかったのか
長編の翻訳がこれ1冊きりで止まっただけでなく
知る限りでは文庫化もされなかったのは
いかにも残念なことでした。
植草の紹介を読むと
シリーズ・キャラクターの
ベン・ヘルム警部が登場する作品は
ちょっと面白そうです。
どこか奇特な出版社が
訳してくれると嬉しいのですけれど。