ちょうど1週間前(4月14日)に

アガサ・クリスティー原作

三谷幸喜脚本の

『黒井戸殺し』が

フジテレビ系で放映されました。

 

原作は『アクロイド殺し』(1926)で

舞台を終戦後(1952年=昭和27年)の

日本の田舎に移し

野村萬斎によるポアロこと勝呂武尊が

2015年にやはり三谷幸喜脚本で放映された

『オリエント急行の殺人』以来の再登場を

果たしております。

 

 

三谷幸喜はプロデューサーに

「横溝正史の金田一シリーズの

 未発表のものが発掘されて、映像化される

 みたいな感じのものになればいいな」

と伝えたそうですけど

(番組HPのインタビューから)

映像を拝見した限りでは

確かにそういう感じでした。

 

黒井戸の屋敷の雰囲気や

勝呂の家の雰囲気

弁護士が遺言状を開陳する場面など

まさに市川崑の映像を

彷彿させるものがありました。

 

 

番組HPのイントロダクションでは

「映像化不可能とされた推理小説の金字塔」

とか書かれています。

 

けれど

LWT(ロンドン・ウィークエンド・テレビジョン)による

デヴィッド・スーシェがポアロを演じた

『名探偵ポワロ』シリーズでも

映像化されておりますし

実をいえば、かつて舞台化されており

必ずしも「映像化不可能」とは

いえないわけでしてね。

 

原作のあの有名なトリックは

もちろん活字による書籍の形を

前提としておりますので

映像化不可能ではありますが

それを除けば

物語内容自体は普通に

映像化可能なわけです。

 

むしろ、映像化・舞台化することで

あの有名なトリックだけでない

プロットないし構想の見事さが

浮び上がるわけでして。

 

 

ちなみに

かつて舞台化されたというのは

ミカエル・モルトンによる戯曲版です。

 

『アリバイ』というタイトルで

かつてハヤカワ・ミステリから

刊行されたことがあります。

 

アガサ・クリスティー原作『アリバイ』

(1928/長沼弘毅訳、ハヤカワ・ミステリ、1954.11.30)

 

ポケミスの表紙では

著者名がクリスティーになってますけど

クリスティーが戯曲化したわけでは

ありませんので

ご注意。

 

1928年というのは舞台の公開年で

同年に戯曲も刊行されているかどうかは

ちょっと分かりません。

 

舞台のセットが

写真版で載っており

資料としても貴重なんですけど

これは今後、復刊されるとも思えず

まさに幻のポケミスといえそうな一冊。

 

昔、大学院の先輩から

購入させていただいたもので

実は今回が初読です。

 

先輩から買った時の値段は覚えてませんが

今、古書価でいくらするんでしょうね。

 

 

今回の三谷幸喜脚本の映像版を観たり

上記、ミカエル・モルトンの脚本を読んで

気づいたことがあります。

 

それは何かといえば

犯人はそれなりに計画をたてて

犯行に臨んでいるけれども

実は犯人が意図せざることが起きており

それによって犯人自身も事件当夜

何が起きたか分からない状態になっている

ということです。

 

それが実は

例の有名なトリックの

ミスディレクションとしても機能していて

当のトリックを補強しているのではないか

と思った次第です。

 

 

たとえば

犯人が用意したアリバイとは別に

犯人が予想だにしなかったことが

事件の当夜に起きていて

それによってアリバイが強化されたり

容疑者が増えたりしています。

 

探偵役はそれによって

事件を推理せざるを得ないのですが

犯人もまた、それによって

事件当夜、何が起きたのかを

推理せざるを得ない。

 

その推理が

自分から疑いをそらすためのもの

であることは

もちろんなのですけど

きっちりとした計画に沿って

その推理が語られるのではなく

(推理することが織り込み済みなのではなく)

たまたま起きている出来事と

自分の犯行と矛盾しないような推理を

行なわざるを得ない

というところが秀逸なのではないか

と思う次第なのです。

 

これって

たまたま最近読んだ

A・E・W・メースンの『矢の家』(1924)と

同じシチュエーションではないかしら

と思ったことでした。

 

 

『アクロイド殺し』は

自分は原作を読む前にトリックを知っていて

だから最初に原作を読んだ時

ことさらに

小説としても面白い

ということを強調しようとしていた

という気がします。

 

確かに小説としても面白い部分は

あるのですけど

それよりも

犯人の意図しない偶然によって

犯人もわけの分からない状況におかれ

それが例のトリックの

ミスディレクションにもなる

というのが

ミステリとしてのキモだろうと

今回、思い到ることができました。

 

そしてまた、それは

小説としての面白さのキモにも

つながっているような気がします。

 

その「小説としての面白さ」とは

自らの管理から外れる状況に

右往左往する人間のおかしみ

というやつではないかと思います。

 

これは再読しないと

分からない面白さですけどね。

 

 

それとは別の話になりますが

今回のドラマで興味深かったのは

犯人の動機を変えて

犯人を、ある意味

「いい人」にしているところ。

 

あそこらへんは

いかにも日本の視聴者向け

という感じでした。

 

あと、原作では大佐なのを

胡散臭い小説家に変えてましたが

そのため、アクロイドの姪の恋愛も

何となく胡散臭いというか

説得力が感じられませんでした。

 

松岡茉憂が

なかなか素敵だっただけに

なんでこんな奴と!

と思っちゃったのかも

しれませんけど。(^^ゞ

 

あと、斉藤由貴が演じる

医者の姉は絶品でした。

 

 

モルトンの戯曲版は

シェパード医師の姉が

妹になっているという違いがあり

ポアロがその妹に

惚れていることがほのめかされていて

ちょっと驚きでした。

 

あと、舞台だけあって

テンポが速い。

 

事件が起きた次の幕で

もう解決という感じです。

 

当時は幕間に

犯人は誰でしょう、といった

観客への挑戦はなかったんだろうか

と想像してみるのも一興。

 

 

ところでちなみに

三谷版もモルトン版も

原作にあった麻雀シーンを

削っていたのが

ちょっと残念。

 

モルトン版は

より一般的なブリッジに

変えられていましたけど

三谷版はテレビなんだし

日本が舞台なんだから

やっても良かったような気がします。

 

もっとも

放送倫理上のコードに

ひっかかりそうだから

あえて避けたのかも

しれませんけどね。( ̄▽ ̄)

 

 

あともうひとつ、

三谷版でいちばん受けたのは

四角いかぼちゃを

実際に見せてくれたことかなあ。

 

モルトン版には

かぼちゃの「か」の字も

出てきてませんでした。( ̄∀ ̄)

 

 

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