『愛国殺人』ポケミス改訂版

(1940/加島祥造訳、ハヤカワ・ミステリ、1975.7.31)

 

上は改訂版の表紙です。

 

1975年ごろ

映画『オリエント急行殺人事件』(1974)の

公開に合わせて

ポケミスのクリスティーが

まとめて復刊されたような記憶があります。

(日本での公開は1975年の5月でした)

 

そのころに出た改訂版で

確か中学校近くの新刊書店で見つけて

買ったのではなかったかしらん。

 

おそらく本書が

自分が初めて買った

ポケミスではないかと思います。

 

 

邦題はアメリカ版の原題

The Patriotic Murder

基づいていますが

イギリス版の原題は

One Two, Buckle My Shoe

これはマザー・グースの

そういう歌い出しの曲から

採られたものです。

 

「いち、にい、バックルを締めて」は

第1章の章題でもあり

全10章のタイトルがすべて

この歌の各節(各行?)から

採られています。

 

そのため

マザー・グースものと

紹介されることが

しばしばありました。

 

そう紹介されると

『そして誰もいなくなった』(1939)のような

マザー・グースの歌に合わせて

殺人が起こるという

いわゆる童謡殺人ものというふうに

思ってしまうのですけど

そうではありません。

 

裏表紙の内容紹介には

「童謡『マザー・グースの歌』に乗って展開する難事件」

と書かれてありますが

これはかろうじてOKかな(笑)

 

ただ改訂版の解説が

「クリスティーと童謡殺人」なので

(執筆は編集部のS氏)

中学生だった自分は

童謡殺人ものを期待して

読んだかも知れず

だとしたら

えらく失望したことでしょうね。

 

 

童謡殺人ものでこそ

ありませんでしたけど

その代わりというか

いわゆる英国産のスパイ・スリラーが

踏まえられた作品になっています。

 

第4章・第4節で

ジャップ主任警部が

「まるでフィリップス・オッペンハイムや

 ヴァランタイン・ウィリアムズ、それから

 ウィリアム・ル・キューだ」(P.113)

と言う場面がありますし

第7章・第5節には

「ポアロは、

 フィリップ・オッペンハイムの小説が

 再現したように思えて

 うなってしまった」

(p.177。「フィリップ」は原文ママ)

というフレーズも出てきます。

 

クリスティーは

スパイ・スリラーのネタを

謎解きミステリに絡める

ということを、しばしばやっていて

こちらで以前紹介した

『複数の時計』(1963)なんかも

そのひとつですね。

 

そういうクリスティーの

スパイ・スリラーに対する認識は

前時代的なものであり

エリック・アンブラーや

ジョン・ル・カレを通過した

現代の読者にとって

旧態依然としたものに感じられると

たとえば霜月蒼などが

『アガサ・クリスティー完全攻略』(2014)で

いったりしています。

 

 

ただ、何というか

本作品に関していえば

おそらくクリスティーも

そこらへんは

百も承知だったのではないかと

自分には思えます。

 

というのも

第4章・第6節に

「ルリタニア駐在の本国大使」(p.120)

というフレーズがあるからで

ルリタニアというのは、ご存知

アンソニー・ホープの冒険小説

『ゼンダ城の虜』(1894)に出てくる

架空の王国ですね。

 

つまり、これはみんな

お伽噺なんだということを

テクスト自体がそれとなく

読み手に知らせているわけです。

 

そういうテクストに対し

リアリズムの洗礼を受けた

新世代のスパイ・スリラーを対置して

賞味期限が切れている

というのも

野暮な話ではないでしょうか。

 

 

もっとも、そういうことに

中学生当時の自分が

気づくはずもなく

スパイ・スリラーの要素がある

というだけで

引いていたような気がします。

 

本格ミステリ大好き少年でしたから。(^▽^;)

 

 

その本格ミステリとしてのプロットは

ある有名なトリック(パターン)のひねりで

それをミス・リードするために

スパイ・スリラーの要素を

取り入れているわけです。

 

江戸川乱歩は

「クリスティーに脱帽」(1951)

というエッセイの中で

本作品や『白昼の悪魔』(1941)にふれて

「惜しげもなく大きなトリックを

 幾つも織りこんだ、

 よく考えた複雑な筋」

と評していますけど

乱歩が好んだのは

ある人物の過去に絡む

ある人物の正体というか

その立ち位置ではなかったか、と

今回、読み直して思いました。

 

 

まあ、そうはいっても

今回、読み直して

ものすごく面白かったかというと

それはまた別の話。f^_^;

 

短い節を積み重ねて

章を構成しているので

何となくせわしない感じがするし

それまで紹介されていなかった人物が

いきなり登場したりするため

人間関係が掴みにくい。

 

特に

何の説明もなく

ポアロが内務省退職官吏を

訪ねていく件りは

混乱させられました。

 

先の霜月蒼が本作品を評して

登場人物が相互につながりがなく

ポアロが尋問することで

点と点がつながるように

登場するだけであるため

キャラクターとして生き生きとしていない

と書いていましたけど

まさにその通り。

 

事件に関わる証言以外に

懊悩したり苦悩したりといった

内面描写がカットされているので

読んでいても

小説としてゴツゴツしている感じが

するのですね。

 

ストーリーを追っているだけというか。

 

だから読みづらい。

 

そういう感じがするのは

クリスティーにしては珍しい

という気がします。

 

 

にもかかわらず

最後まで読むと

一種の感動に包まれるのですから

あなどれない。

 

今回、抱いたような感動は

おそらく中学生当時の自分だと

感じられなかったものだと思います。

 

年を経て、

さらには

最近の社会情勢を鑑みているから

感じられる質の感動だと思うわけで。

 

それは

『アガサ・クリスティーと大英帝国』を読んで

本作品が社会性のある作品だと知り

読み直してみようと思った経緯とも

関係してきます。

 

その感動の中身については

ちょっと長くなったので

また記事を改めることにします。

 

 

というわけで、この項続く。(^^ゞ


 

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