(1938/武藤崇恵訳、原書房、2016.1.29)
パーシヴァル・ワイルドの作品は
以前、『検死審問ふたたび』(1942)を
こちらで取り上げたことがありますけど
そのワイルドが書いた
ミステリ系の長編第1作が
『ミステリ・ウィークエンド』です。
全体は4部構成で
各部、語り手(書き手)が異なる
手記(速記録)で構成されています。
古くは
ウィルキー・コリンズの
『月長石』(1868)など
こうしたスタイルの作品は
珍しくありませんけど
本作品の場合
ちょっとした効果をあげています。
それが何かということは
ここでは伏せておきましょう。
タイトルの
「ミステリ・ウィークエンド」というのは
地方のホテルが主催する、
チケットを買って
ゆく先が分からないまま列車に乗ると
ウィンター・スポーツを楽しめる場所に
到着するという企画のことです。
少し前に
JRだったかが主催した
ミステリー列車という企画が
ありましたけど
それに類したものですね。
Wikipedia の記事によれば
こうした企画の発祥はイギリスで
1932年のことだったとか。
しかも驚いたことに
第2次大戦前の日本でも
行なわれていたようです。
その割りには、海外でも日本でも
こうした企画を背景としたミステリは
少ないように思います。
寡聞にして、西村京太郎の
『ミステリー列車が消えた』(1982)
くらいしか思いつかず
解説で森英俊が書いているように
本書『ミステリ・ウィークエンド』が
そうしたミステリー・ツアーものの
先駆といってもいい作品かも知れません。
本書はさらに、
ツアーの目的地であるホテルで
事件が起きるのですが
折からの降雪のため
外部との連絡が途絶えるという
クローズド・サークルの趣向も
加味されています。
ミステリー・ツアーの
参加客の一人が何者かに襲われ
納屋で発見されるのですけど
翌日、発見された被害者は
消えてしまい
ツアー客とは別に
ホテルの抵当権の持ち主で
その余得で長期滞在している人物が
死体となって発見されます。
しかも現場の納屋は
前日の夜、被害者を発見した後
鍵をかけてあったのに
にも関わらず
死体との入れ替わりが起きた、
さらに凶器も消えていました。
これに加えて
最初に発見された被害者と
何やら因縁のありそうな
夫婦連れのツアー客が
奇妙な振る舞いをして
ホテルのオーナーを悩ませます。
こうした奇妙な状況や謎が
ユーモアを交えながら示されていく中
最後にはすべて合理的に説明されるあたり
さすがはパーシヴァル・ワイルド
と舌を巻かされること請け合いの
できばえでした。
読んだあとに思ったのは
クレイグ・ライスの作品世界と
似ているな、ということでした。
クレイグ・ライスは
本作品の翌年に
『時計は三時で止まる』で
デビューしますから
ライスの影響を受けているというより
当時の時代思潮というか
時代の空気のようなものが
本作品にもよく表われている
というべきなんでしょう。
ワイルドとライスは同時代作家
ということに
今さら気づくのも迂闊な話ですが
そう気づいてみれば、さもあらん
という感じですね。
実をいえば
本作品中のある趣向が
ライス作品を連想させたのですけど
それが何かを書くと
本作品のネタバレにつながるので
ここでは伏せておかざるを得ません。
というわけで本作品は
『大はずれ殺人事件』(1940)
『大あたり殺人事件』(1941)の
テイストが好きな方には
おススメです。
(この程度なら
どちらの作品についても
ネタバレにはなりませんので
ご安心くださいませ)
1930年代のアメリカという
時代背景を無視すれば
赤川次郎の作品だといわれても
まったく違和感を覚えないと思います。
赤川次郎のミステリが
いかに海外ミステリのテイスト
(あるいは外国映画のテイスト)を
自家薬籠中のものとしているか
そして/あるいは
いかに超時代的な作品なのか
(時代風俗に影響されないか)
ということが、よく分かります。
翻訳ものだと
違和感なくスルーしてしまいますが
赤川次郎が書いたものだと
あり得ない、リアルじゃない
と思ってしまうのは
日本を舞台にしているためでも
ありましょうか。( ̄▽ ̄)
なお
「ミステリ・ウィークエンド」自体は
短かめの長編なので
短編が三つ、併録されています。
(内ひとつはショート・ショート)
その中では
「自由へ至る道」(1952)が傑作。
ここでいう「自由」というのは
身体的な自由だけを指すのではなく
それとも関連するのですが
当時の(今でも?)アメリカ人に
内面化されていた
「倫理」のありようが描かれており
最後は感動的でした。