3月11日(金)
東京芸術劇場コンサートホールで開かれた
聖トーマス教会合唱団と
ゲヴァントハウス管弦楽団による
バッハ『マタイ受難曲』のコンサートに
行ってきました。

下はパンフレットの
「聖トーマス教会合唱団&
ゲヴァントハウス管弦楽団
2016年日本公演プログラム」です。

聖トーマス教会合唱団2016日本公演パンフ
(ジャパンアーツ企画編集、2016)


生協のカタログでチケット発売を見て
だからS席でも多少は安かったんですが
清水の舞台から飛び下りる気持ちで購入。

というのも
一度は『マタイ』をライブで観たかったのと
聖トーマス教会といえば
バッハがカントールを務めた
ゆかりの教会だからです。


カントール(カントル)というのは
協会に所属する聖歌隊を指導したり
礼拝で行なう音楽を
取り仕切ったりする役職です。

バッハの最後の就職地であった
ライプツィヒにあった
4つの教会のひとつが
トーマス教会で
バッハはその聖歌隊の生徒の
音楽指導をしていたのです。

今回の合唱団が
バッハゆかりなのは
そういうわけです。


演奏の印象としては
昨今の古楽演奏の影響を受けてなのか
全体に軽やかな感じでした。

興味深かったのは
登場人物の一部を
ソリストではなく
合唱団のメンバーが演じていたことです。

たとえば
ペトロの否認に関わるシークエンスで
ペトロと
ペトロをイエスの弟子だと指摘する
女たちは
すべて合唱団のメンバーが演じていたこと。

ユダもそうでしたね。

CD演奏を聴いているだけでは
ちょっと分からないのですが
いろいろな解説などを見るかぎり
ペトロやユダなどの重要なキャラクターを
合唱の1人が歌うというのは
独得な演出だと思います。


それはそれとして
やっぱりCDで聴くのと
目の前に歌う身体があるのとでは
ストーリーに対する臨場感というか
のめり込み度が
全然、違いますね。

歌う身体が目の前にある方が
説得力が感じられました。


ソロで良かったのは
何といっても
福音史家を演じた
マルティン・ペッツォルト。

イエスを演じた
クラウス・ヘーガーも良かったけれど
ペッツォルトの切々たるアリアには
心揺さぶられました。

自分が知らないだけで
著名な演奏者なんだと思います。

最後の客席からの拍手の際
ペッツォルトのときは
ひときわ高まっていたのが
印象的でした。


ちなみに当日の福音史家は
ベンジャミン・ブルーンスの予定でしたが
体調を崩したため
ペッツォルトに代わったと
会場ロビーに貼紙されてました。

パンフの配役だと
テノールが2人いて
ブルーンスが福音史家を
ペッツォルトがアリアを
担当するような感じですが
だとしたらペッツォルトは
テノール・パートを1人で演じ切ったわけで
なるほど拍手が大きかったわけです。


ゲヴァントハウス管弦楽団の使用楽器は
基本的にモダン楽器だと思うんですが
チェンバロやポジティフオルガンはともかく
今回、リュートが加わってました。

初期稿ではリュートが想定されていた
という考証もあるようで
こういうあたりにも
古楽演奏の影響を感じさせます。

ただ、リュートの音は
レチタティーヴォのとき
かすかに耳に届くくらいで
基本的に音が弱くて
聴こえないですね。

そんなこといったら
チェンバロもそうだけど。


それと
フルートの一部(?)は
フラウト・トラヴェルソだったように
思います。

座席が1階席の前から4列目
しかも上手側だったため
オーケストラ全体を把握できず
はっきりしませんが
第2部冒頭のアリアで伴奏を務めていた
わずかに見えたフルートの
歌口に近い端の部分(上部?)が
フラウト・トラヴェルソっぽかったので。

音色もくすんだ感じで
フラウト・トラヴェルソっぽかったです。


自分の座席からの視野は、こんな感じ。

東京芸術劇場コンサートホールその1

東京芸術劇場コンサートホールその2

下手側に写っている電光掲示板に
歌詞が流れます。

この電光掲示板は上手側にもあります。


上掲のような視野の座席だったわけですが
合唱も器楽も2群に分かれ
曲によって
どちらの群がメインになるのかは
はっきりと分かりました。

これはCDでは分からないですね。

できればセンサラウンド効果が出るように
両脇に離れていて欲しかった気もしたり。

最も自分の席だと
その効果も
感じられなかったでしょうけど。


第1部の途中で
合唱団員が3人ほど
抜けていましたが
気分が悪くなったんでしょうかね。

というより
そんなふうに抜けていいんだ
というのに
びっくりさせられました。


今回の公演は
東日本大震災から5年目という
節目の日だったわけで
別に意図して選んだわけではなく
たまたまだったのですが
ある意味、追善にもなったかと
感じています。

『マタイ受難曲』というのは
人の子の罪(原罪)を
神の子のイエスが犠牲となって
贖罪するという「物語」を描いて
人間の弱さや愚かさを
あぶりだして
思い上がりや傲慢さを
諌めてもいるように思うからです。


今回、印象的だったのは
ゲッセマネの園で
イエスが祈っている間
弟子たちは眠ってしまうわけですが
その際イエスは
「心は燃えていても肉体は弱い」
(樋口隆一訳。以下同じ)
と語るシーン。

また
イエスを捕らえにきた大司祭の手下の耳を
イエスの弟子の一人が剣で切り落とした際に
「剣を取る者は皆、剣で滅びる」
と語るシーン。

さらに
大司祭の館で取り調べの際に
イエスの頬を張った者がいて
メシアであれば
殴った者が誰であるかを当ててみろ
と言うシーンや
十字架に書けられたイエスに対して群衆が
神の子であれば自分で自分を救ってみろ
と言うシーンなどなど。

現代日本社会の
いろいろなシーンを
連想させられたことでした。


キリスト教に由来する受難曲を
キリスト教を報じていない日本人が聴いて
どうするのか、何の意味があるのか
という議論もありますけど
人間の弱さ、傲慢さに思いを致し
反省を促されるというのは
宗教とは関係なく可能なわけです。

そういうことを今回の公演では
強く感じさせられました。

(もちろん
 好きなんだからしょうがないじゃん
 ということでも
 いいんですけどね)


その一方で
そういうことを
美しい音楽に乗せて語るというのは
よくよく考えてみれば
それはすごいことだとも
感じた次第です。

バッハが聖トーマス教会在任中の
初演当時には
演奏を聴いて
オペラのようだという批判も
あったそうですが
それがよく腑に落ちもするのでした。


それでも第2部の後半になると
眠気に襲われたのは
我ながら残念なことでした。(´・ω・`)

とはいえクラシックのライブ
特にバッハの声楽曲
ちょっとクセになりそうです。

もっとも
懐具合という
きわめて現世的な理由で
そうそうは
行けないのですけどね(遠い目)


本日は13:00から
川崎の方で公演です。

もう始まってますね。


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