
(1934/林房雄訳、創元推理文庫、1959.10.16)
所有本は1976年7月23日発行の第30刷です。
『すねた娘』の記事で掲げた
『現代推理小説大系』版の書影を
見ていただくと分かるかと思いますが
最初は『幸運の脚』という邦題でした。
林房雄訳は最初、1958年に
『世界推理小説全集』第74巻
『幸運の脚』として刊行されました。
たまたま持ってるので
以下に書影を掲げておきます。

(東京創元社・世界推理小説全集74、1958.1.31)
翌1959年、現行の邦題に改められ
白オビ時代の創元推理文庫に入り
さらにその翌年、1960年に
「幸運の足」と再び改題(復題?)して
『現代推理小説大系』に再録されました。
文庫化の際、改題したのは
おそらく
『全集』版の前年に出ていた
ハヤカワ・ミステリ版と
バッティングしたからでしょう。
『大系』に入れる際
1字だけ改めて復題した理由は
よく分かりませんが
そのため書誌上の記述は
めんどくさい本になってしまいました(苦笑)
それはともかく、本書は
ペリー・メイスン・シリーズの第3作で
実はこの本、自分が初めて読んだ
ペリー・メイスンものだったりします。
だから古本で買ったのではなく
新刊で買いました。
中学校の定期試験前のある日
勉強もせずに
午前中にこれを読んで
午後に別の本を読んだ記憶があるのですが
午後に何を読んだのかは覚えていません。
ただ、これを読んでも
メイスンものに感銘を受けなかったと思しく
これ以降、メイスンものを読むことは
ありませんでした。
たぶん法廷シーンを
期待してたんだと思いますけど
この作品には法廷場面はありません。
この作品自体は
ハードボイルドものだと思って読めば
それなりに面白いんですけど
ペリー・メイスンの名前に惹かれて
最初に読む本としては
やっぱり適切とはいえない気がします。
もっとも、法廷ものだと思わずに読めば
それなりに楽しめたはずですけど
何といっても
本格もの好きの中坊でしたから(苦笑)
中学生のとき以来
久しぶりに読んでみたわけですが
今回、読んで思ったのは
メイスンはアルセーヌ・ルパンのような
アドヴェンチャラーなんだなあ
ということでした。
秘書のデラ・ストリートに
所長はなぜ他の弁護士のように
「事務所にすわっていて、
事件がやってくるのを待たないのか」
「どうして、あなたは、
いつも最前線にとび出して、
事件そのものの中に
まきこまれるようなまねをなさるの?」
と聞かれる場面があります。(p.147)
それにメイスンは次のように答えます。
「それが自分でわかったら、
首をくれてもいい。
僕がそんなふうに生まれついている
というだけのことさ。
嫌疑は充分にあるが、証拠がないので、
陪審員たちが、
被告を有罪と宣告できなかった先例は、
何度もあったね。
僕はそういう陪審の評決は嫌いだ。
僕は、無罪なら無罪と、決定的に確証したい。
僕は事実に即してやって行く。
僕には、警察の先手をうって事情をつかみ、
実際に起こったことを
誰よりも先に推理しようとして
事件の中心にとび込んで行く
偏執[マニヤ]があるんだ」(p.147)
「偏執[マニヤ]があるんだ」というのは
何だかこなれない訳だなあと思いますけど
それはともかく。
上に引用した部分は
メイスンの行動原理を
端的に述べた部分ですが
「決定的に確証したい」というあたりが
メイスンが古風な名探偵キャラたる
ゆえんのように感じます。
現代の海外ミステリは
「決定的に確証」できない
ということを
前提にしているように思えるからで
そうでないのは自分の知る限り
ジェフリー・ディーヴァーの
リンカーン・ライム・シリーズ
ぐらいのような気がしますね。
ちょっと話がずれましたが
メイスンが
アドヴェンチャラーだというのは
事件が解決して新聞記者から
「あなたは危険を
おかしちゃいなかったんですか」(p.347)
と聞かれて
次のように答える場面の方に
顕著に現われていると
いえるかもしれません。
「諸君、僕はいつも危険をおかす。
それは、僕流のゲームのやりかただ。
僕はそれが好きなのだ」(p.347)
要するに冒険好きということですね。
常に自分をギリギリまで追いつめなければ
生の実感が持てないと
言っているようなものでして
これはアルセーヌ・ルパンや
シャーロック・ホームズなんかとも
共通する資質のような気がします。
それは、弁護士としては
プロのあり方とは思えない気もするわけで
そういうところからも
アドヴェンチャラーなんだと思うわけです。
今回はそれに加えて
怪人対巨人(名犯人対名探偵)
とでもいうようなプロットが
底流にあって
虚心坦懐に読むと
底流にうかがえる知的闘争には
かなり迫力が感じられます。
それでいて
メイン・プロットは
恋人のためなら
我が身を省みず危険を冒す
といった体のものだったりして
かなり古風というか、古くさい。
本作品に関しては
ヴィクトリア朝の
センセーション・ノベルと
たいして変わらないプロットだと
思う次第です。
だからこそ
メイスン・シリーズは
成功したのではないかと
思わずにはいられないのですけど
創元推理文庫の中島河太郎の解説を始め
そういうことをいう人は
あまりいないのは
なぜなんでしょう?
寡聞にして
知らないだけかもしれませんが。f^_^;
『ビロードの爪』から読んでてきて
法廷場面のない作品にぶつかると
メイスン・シリーズは
まだ3作ということもあり
シリーズとしての方向性を
いまだ手探りしていたのではないか
と思ったりもします。
中学生の頃は
そんなふうには感じなかったわけで
そんなふうに感じられただけでも
読みなおした価値があった気がします。
それにしても
文庫本にして350ページもあるのに
あっという間に読めてしまう
リーダビリティーには
脱帽でした。
なるほど、午前中に読み終えて
午後には別の本を読む気になったのも
分かる気がしますなあ(苦笑)
