『世界名作推理小説大系18』
(1933/大岡昇平訳、東京創元社・
 世界名作推理小説大系18、1960.9.5)

ペリー・メイスン・シリーズの第2作です。

もちろん、創元推理文庫でも出てますが
残念ながら手許にはないので
『世界名作推理小説大系』という
辞書みたいな装幀の
全集に入っている版で読みました。

もちろんこれが最初の版ではなく
1957年に東京創元社から出た
『世界推理小説全集』第41巻が最初の版で
こちらは本邦初訳版でもあります。

そのあと、1959年に
まだ白オビが付いていただけの頃の
創元推理文庫に収められました。

これらはすべて大岡昇平訳でしたが
その後、1976年になって
池 央耿[ひろあき]による
改訳版が出ています。

手許にないのに何故
刊行年や改訳者が分かるかというと
そこはそれw
いろいろと調べようはあるのです。


それはともかく
本作品はメイスンものの第2作ですが
ようやく、巷間いわれている通りの
メースンもののパターンが登場します。

つまり、奇妙な依頼人が訪れ
それから依頼内容に絡んで
殺人事件が起こり
メイスンが法廷で
依頼人の無実を晴らす
というパターンですね。

第1作の『ビロードの爪』が
タフガイ探偵の活躍する
ハードボイルド小説みたいだったのに対し
『すねた娘』は法廷場面もある
リーガル・ミステリになってます。

審理の場で意外な犯人を指摘するという
これぞ法廷推理の醍醐味
というような場面も出てきます。

読者は真相に対する興味と同時に
メイスンがどうやって依頼人を救うのか
という興味に惹かれて読むわけですね。

今回の作品でも
ある証人の信念を突き崩そうとする
メイスンの意図をめぐって
サプライズ感があり
なかなかみごとでした。

あの現場検証のやりなおしは
そういうことだったのか
という感じで。


で、読んでて思ったのは
『ビロードの爪』でもそうでしたけど
依頼人にせよ関係者にせよ
あるいは新聞記者や
メイスンの調査を引き受ける
私立探偵のポール・ドレイクまで
メイスンに対して
こう考えているんだろうと言ったり
メイスンがこう考えているんだろうから
自分はこうするというふうに
メイスンの考えを忖度して
勝手に判断して動こうとする人が多い。

さすがにドレイクは
勝手に動きませんけどね(笑)

面白いくらい、依頼人も
事件に連なる利害関係者も
勝手に考えて行動します。

メイスン先生に任しとけば安心
というふうにはならないのが
面白いというか、興味深い。


メイスンを信じきっているのは
秘書のデラ・ストリートだけです。

『ビロードの爪』の時は
デラですら
先生は何を考えているのか分からない
という感じだったのですが
『すねた娘』になると
全面的に信頼し
慈母のような微笑を浮かべている。

同じ年に書かれたにもかかわらず
デラのスタンスが
かなり異なっている印象を受けました。

本書で初めて
パターンが確立したと思うのは
そういうデラのありようも
与っているのかもしれません。


ちょっと、おやっと思ったのは
メイスンがドレイクに語る
次の台詞です。

「殺人事件の真相をきわめる方法は、
 どんなつまらないことでも、
 まだ説明のついていない限りは
 全部とり出して来て、
 それに正しい説明が
 つくようにすることだよ」
 (17章。p.144 下段)

これって、本格ミステリの
名探偵の台詞みたいですね。

メイスン・シリーズが
ハードボイルドにして本格派
といわれる所以は
こんな台詞が出てくるところにも
あったのかと思ったり。


あと、メイスンが審理において
一見すると不利な状況になった場面では
地の文に次のように書かれています。

「人間には敗者に同情する本能があるが、
 それは個人としての場合のことだ。
 群集心理は個人の心理とちがって、
 弱い者は打ちひしぎ、
 傷ついた者は打ちのめす。
 敗者に同情はそそぐが、
 味方するときは勝者につくものだ。」
 (25章。p.208 上段)

これは別にアメリカだけに限ることではなく
大衆心理をよく突いていると思う次第です。

さすが
弁護士経験のあるガードナー
という感じですね。


なお、本作品は
早川書房から出ている訳本だと
『怒りっぽい女』
という邦題になっています。

確かに依頼人のフランシス・セレーンは
すぐカッとなる短気な気性の女性なので
早川版の邦題の方が
作品内容には合っている感じがしますが
「女」より「娘」の方がいいかも。

ちなみに原題は
The Case of the Sulky Girl です。


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