
(講談社、2005年7月7日発行)
整理しなくちゃなーと
ぼんやり書棚を眺めていたら
目に入ってきた
まだ読んでいなかった本です。
後に講談社文庫に入りました。
現在はその電子書籍版が
購入できるようです。
初版本の表紙イラストは
エンボス加工になっていて
「偏愛」の名を掲げる書物らしい
こだわりを感じさせるものになっています。
こうした、ものとしての本の魅力は
電子書籍では出せますまい。
自分は倉橋由美子の良い読者ではなくて
『明治大学新聞』に発表され
芥川賞候補となった短編
「パルタイ」(1960)くらいは読んでますが
『スミヤキストQの冒険』(1969)とか
『アマノン国往還記』(1987)といった長編は
いまだに読めていません。
怪奇幻想系の短編集を何冊か出しており
気にはなっているのですが……。
『偏愛文学館』を買ったのは
怪奇幻想系の小説やミステリが
多く取り上げられているからです。
ミステリ関連で取り上げられているのは
岡本綺堂の『半七捕物帳』
宮部みゆきの『火車』
ピーター・ラヴゼイの『偽のヂュー警部』
パトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』
ロバート・ゴダードの『リオノーラの肖像』
といった5作品、
ジェフリー・アーチャーの
『めざせダウニング街10番地』も入れれば
6作品になりますが
日本の現代作家では、ただ一人
宮部みゆきが取り上げられているところが
宮部さんにとっては名誉でしょう。
『火車』についての文章の冒頭では
「推理小説は暇つぶしのため、
娯楽のために読むもの
ということにはなっていても、
それが文学になっていなければ
とても読めたものではありませんし、
楽しむこともできません。
宮部みゆきさんの小説は
何よりもいい文章で書かれています。
(略)
読んで楽しくなるよりも
疲れる文章で書かれたものは、
それだけで文学から
遠ざかってしまいます」(p.46)
と書かれています。
こうしたミステリ観は
丸谷才一などとも共通するものですね。
『偽のデュー警部』についての
文章の冒頭にある
以下のような感想も
丸谷的なミステリ観をうかがわせます。
「『探偵小説』、推理小説、ミステリ
などと呼ばれている小説を、
今は、そういう名前で
特別扱いすることはないようで、
イギリスには
上等のスコッチ・ウィスキー以上に
世界中で愛飲、いや愛読されている
上等の推理小説がたくさんあります。
上等というのは、奇抜なトリックとか
鮮やかな謎解きといったことよりも、
小説として上等で、
大人が読んで楽しめる
ということです」(p.136)
これとは別に
ストーリー進行の「快いリズム」を
「グレン・グールドのピアノで聴く
バッハの『イギリス組曲』を思わせ」る
と書いてあるのには
ちょっと意表をつかれました。
『太陽がいっぱい』の末尾では
ハイスミスの小説には
女性に対する辛辣な見方が
書き込まれており
「女性自身は
こういうものを読みたがりませんし、
男性は男性で、
女性にはとかく甘い幻想を
抱きたがります。
パトリシア・ハイスミスの小説が
一部の推理小説マニア以外に
あまり愛読されない理由も
そんなところにあるのでしょう。
(略)
純粋辛口の強烈な
モルト・ウィスキーのような味を
好む読者には、
男女を問わず、
このパトリシア・ハイスミスの小説は
お薦めです」(p.150)
と書かれていて
大いに共感した次第です。
引用ばかりしていると
いたずらに長くなるので
このへんにしときますが
ミステリ系烈の作品以外も
割と自分の好みの小説が
取り上げられていることが多く
未読の作品などがあると
ちょっと読んでみたくなります。
ただ、
ここで取り上げられているような作品
特に海外の長編小説などは
その作品世界に入っていくために
相当気合いを入れる必要があるため
(そう思い込んでいるだけかな? w)
ちょっとやそっとでは
手を出せない気がされ
雑事多忙のこともあり
なかなか時間がとれないのが残念です。
全37章のうち
「偏愛文学館」の総題の下
『群像』に連載された7章分は
やや長めの文章ですが
「偏愛図書館」という総題の下
『楽』という雑誌に連載された
残りの30編は
3ページ程度の短い短評で
気軽に読めて
時として寸鉄人を刺すような
フレーズもあり
全体として味わい深いものになってます。
読めればいいという人は
電子書籍版で読まれても
いいかと思いますが
こういう本は活字で読む方が
味わいが増すように思いますけどね。
