またまた「青い十字架」の話です。
以下、作品のキモに触れていますので
未読の方はご注意ください。
トリックもの、ないしは
意外な犯人ものではありませんので
初読の楽しみを奪うとは思いませんが
念のため。
『ブラウン神父の無心』の第1話
「青い十字架」を読み直していて
最高に盛り上がったのは
後に怪盗フランボーと分かる
背の高い神父と
ブラウン神父との
形而上学的な対話です。
(以下、引用ページ数は
ちくま文庫版によります)
長身の神父が
「我々の頭上のどこかに
“理”がまったく不合理となる
素晴しい宇宙が存在しても
おかしくない、と
感じずにはいられましょうか」(p.31)
と言うのに対して
「それは違います」(p.32)と
もう一人の神父、すなわち
ブラウン神父は応じて
続けて次のように話します。
「世間は理性を貶めたといって
教会を非難しますが、
本当はその逆ですよ。
この世でただ教会のみが、
理性を真に至高なものにするのです。
この世でただ教会のみが、
神御自身も理性に縛られていると
主張するのです」(p.32)
ここで言われている「理」というのは
原文では reason で
「理性」とも訳されます。
後半の引用に出てくる「理性」も
原文では同じく reason です。
「理」とするか「理性」とするかは
訳者のさじ加減次第でして
それはどうでもいい。
問題は
「教会は理性を貶めた」
と言う時の「理性」と
「神御自身も理性に縛られている」
と言う時の「理性」とが
まったく同じとは言い難い点でして
そこらへん、先にも紹介した別宮貞徳が
エッセイ「つまずきの石」で
「自然科学の法則に基づく合理性」と
「形而上的、神的な理」とに分けて
説明しています。
別宮先生は
「つまり reason が
二重構造になっているわけで、
それを日本語でも一語で
あらわさなければならないとなると、
これはなかなか容易なことではない」
とおっしゃってますが
容易ではないけれど
原文が一語なら日本語も一語でしょう。
字面だけで同じものと捉えると
訳が分からなくなるわけで
読み手の読解力が要求される
箇所であります。
さらに
英語で reason という時と
日本語で「理性」という時とでは
かなりニュアンスが違うことも
難しさを助長しているようにも思います。
そのニュアンスの違いが
読み手をさまざまな読みへと開くのだと
思いますけど
単にミステリとして読むと
そこらへんが有耶無耶になってしまう
というか
分からなくても読めてしまうので
有耶無耶のままでもいいかと思ってしまう。
そんな気がします。
少しおいてブラウン神父はさらに続けます。
「理性と正義は
もっとも遠く孤独な星さえも
支配するのです。
(略)
オパールの平原にいようが、
真珠でできた崖の下にいようが、
“汝、盗むなかれ”という立札が
やはりそこには
立っているはずです」(p.32-33)
ここで「理性」だけでなく
「正義」justice にも
言及しているのがミソで
だから「汝、盗むなかれ」という
十戒の一節が出てくるのでしょう。
そしてこの一節があるが故に
この形而上学的な対話が
ブラウン神父とフランボーとの
知的対決という様相を示しているのですし
ブラウン神父によるフランボーへの
改悛の勧めとも重なっていくわけです。
この凄みは、再読でないと
(つまり真相を知って読み直すのでないと)
分からないと思います。
(神の)理性と正義を説く
ブラウン神父に対して
長身の神父ことフランボーは
「それでも、やっぱりわたしは、
我々の理性よりも高いところに
別の世界があるのではないかと思います。
天の神秘は測り知れぬものであり、
わたしはただ
うなだれることしかできません」(p.33)
と答えるわけですが
要するにフランボーは
上に述べた二重構造を
理解していないわけです。
そのために、ブラウン神父に
正体を見破られてしまうのですが
フランボーの発想の背景には
自分のルール(理性)によって
自分を律するという
近代的理性のありようへの賞揚が
存在しているのではないか、と
自分は解釈します。
フランボーは
似而非オカルトを語っているのですが
それだけではなく
神なき世の、人間の理性への信頼を
背景としている
と読むのが筋だろうと思います。
要するにフランボーは
フランス的知性(=理性)の体現者
ヴァランタンと
表裏の関係にあるわけです。
このやりとりが
「青い十字架」における
チェスタトンの思想を披瀝する
ハイライトかと思いますが
こういうのって、子ども向きに訳しても
面白味が分かるはずないと思いません?
大人だって分からない、あるいは
分かりにくいのではないかと思います。
何も自分が
年を取ったお蔭で分かったと
自慢しているのではなくて
(少しはしてるかもw)
この対話を聞いていた
フランスの大探偵ヴァランタンのように
二人のやりとりを
事件や捕物にはまったく関係ない
つまり、ミステリ的には
まったく関係ないと思って
耳にとどめないのではなく
こうした細部が
チェスタトンのミステリの
読みどころなのかもしれない
ということなのです。
ミステリとしては、上記の会話の後
フランボーが正体を現し
ブラウン神父をコケにしながらも
実はコケにされていたのは
自分の方だったと知らされる
逆転劇がハイライトになるわけです。
これって〈王子と乞食〉的な
昔からある逆転劇の面白さと
同じだと思います。
同じだから悪いというんじゃなくて
そういう大衆小説のツボを押さえて
読者の期待に応えつつ
形而上学的な思想をさらりと埋め込む
その手つきが素晴しいし楽しいと
今の自分は思うわけなんです。
以下、作品のキモに触れていますので
未読の方はご注意ください。
トリックもの、ないしは
意外な犯人ものではありませんので
初読の楽しみを奪うとは思いませんが
念のため。
『ブラウン神父の無心』の第1話
「青い十字架」を読み直していて
最高に盛り上がったのは
後に怪盗フランボーと分かる
背の高い神父と
ブラウン神父との
形而上学的な対話です。
(以下、引用ページ数は
ちくま文庫版によります)
長身の神父が
「我々の頭上のどこかに
“理”がまったく不合理となる
素晴しい宇宙が存在しても
おかしくない、と
感じずにはいられましょうか」(p.31)
と言うのに対して
「それは違います」(p.32)と
もう一人の神父、すなわち
ブラウン神父は応じて
続けて次のように話します。
「世間は理性を貶めたといって
教会を非難しますが、
本当はその逆ですよ。
この世でただ教会のみが、
理性を真に至高なものにするのです。
この世でただ教会のみが、
神御自身も理性に縛られていると
主張するのです」(p.32)
ここで言われている「理」というのは
原文では reason で
「理性」とも訳されます。
後半の引用に出てくる「理性」も
原文では同じく reason です。
「理」とするか「理性」とするかは
訳者のさじ加減次第でして
それはどうでもいい。
問題は
「教会は理性を貶めた」
と言う時の「理性」と
「神御自身も理性に縛られている」
と言う時の「理性」とが
まったく同じとは言い難い点でして
そこらへん、先にも紹介した別宮貞徳が
エッセイ「つまずきの石」で
「自然科学の法則に基づく合理性」と
「形而上的、神的な理」とに分けて
説明しています。
別宮先生は
「つまり reason が
二重構造になっているわけで、
それを日本語でも一語で
あらわさなければならないとなると、
これはなかなか容易なことではない」
とおっしゃってますが
容易ではないけれど
原文が一語なら日本語も一語でしょう。
字面だけで同じものと捉えると
訳が分からなくなるわけで
読み手の読解力が要求される
箇所であります。
さらに
英語で reason という時と
日本語で「理性」という時とでは
かなりニュアンスが違うことも
難しさを助長しているようにも思います。
そのニュアンスの違いが
読み手をさまざまな読みへと開くのだと
思いますけど
単にミステリとして読むと
そこらへんが有耶無耶になってしまう
というか
分からなくても読めてしまうので
有耶無耶のままでもいいかと思ってしまう。
そんな気がします。
少しおいてブラウン神父はさらに続けます。
「理性と正義は
もっとも遠く孤独な星さえも
支配するのです。
(略)
オパールの平原にいようが、
真珠でできた崖の下にいようが、
“汝、盗むなかれ”という立札が
やはりそこには
立っているはずです」(p.32-33)
ここで「理性」だけでなく
「正義」justice にも
言及しているのがミソで
だから「汝、盗むなかれ」という
十戒の一節が出てくるのでしょう。
そしてこの一節があるが故に
この形而上学的な対話が
ブラウン神父とフランボーとの
知的対決という様相を示しているのですし
ブラウン神父によるフランボーへの
改悛の勧めとも重なっていくわけです。
この凄みは、再読でないと
(つまり真相を知って読み直すのでないと)
分からないと思います。
(神の)理性と正義を説く
ブラウン神父に対して
長身の神父ことフランボーは
「それでも、やっぱりわたしは、
我々の理性よりも高いところに
別の世界があるのではないかと思います。
天の神秘は測り知れぬものであり、
わたしはただ
うなだれることしかできません」(p.33)
と答えるわけですが
要するにフランボーは
上に述べた二重構造を
理解していないわけです。
そのために、ブラウン神父に
正体を見破られてしまうのですが
フランボーの発想の背景には
自分のルール(理性)によって
自分を律するという
近代的理性のありようへの賞揚が
存在しているのではないか、と
自分は解釈します。
フランボーは
似而非オカルトを語っているのですが
それだけではなく
神なき世の、人間の理性への信頼を
背景としている
と読むのが筋だろうと思います。
要するにフランボーは
フランス的知性(=理性)の体現者
ヴァランタンと
表裏の関係にあるわけです。
このやりとりが
「青い十字架」における
チェスタトンの思想を披瀝する
ハイライトかと思いますが
こういうのって、子ども向きに訳しても
面白味が分かるはずないと思いません?
大人だって分からない、あるいは
分かりにくいのではないかと思います。
何も自分が
年を取ったお蔭で分かったと
自慢しているのではなくて
(少しはしてるかもw)
この対話を聞いていた
フランスの大探偵ヴァランタンのように
二人のやりとりを
事件や捕物にはまったく関係ない
つまり、ミステリ的には
まったく関係ないと思って
耳にとどめないのではなく
こうした細部が
チェスタトンのミステリの
読みどころなのかもしれない
ということなのです。
ミステリとしては、上記の会話の後
フランボーが正体を現し
ブラウン神父をコケにしながらも
実はコケにされていたのは
自分の方だったと知らされる
逆転劇がハイライトになるわけです。
これって〈王子と乞食〉的な
昔からある逆転劇の面白さと
同じだと思います。
同じだから悪いというんじゃなくて
そういう大衆小説のツボを押さえて
読者の期待に応えつつ
形而上学的な思想をさらりと埋め込む
その手つきが素晴しいし楽しいと
今の自分は思うわけなんです。