先の記事についた、
『ブラウン神父の無心』(1911)の原題
The Innocence of Father Brown を
「素直に『ブラウン神父の無垢』だと
……語呂が悪いですかね?」
というコメントへのレス、
きちんと応じると長くなりそうなので
この記事をレス代わりとさせていただきます。
というか、レスをネタに
記事を一本書かせてもらうという(^^ゞ
innocence という言葉は
シリーズ第2弾
『ブラウン神父の知恵』(1914)の原題
The Wisdom of Father Brown の
wisdom と対になっていて
それはあたかも
ウィリアム・ブレイクの
『無垢と経験の歌』(1794)
Songs of Innocence and of Experience
における innocence と experience の如し
といったのは
『無心』の訳者の一人・南條竹則です
(ちくま文庫版の「訳者あとがき」参照)。
ところでチェスタトンは
ブレイクの評伝も書いていて
同書が出版されたのは1910年。
これは『無心』をまとめる前年でした。
したがって
The Innocence of Father Brown
というタイトルを考えたとき
チェスタトンの念頭には当然
ブレイクの『無垢と経験の歌』が
あったのではないか
と想像されます。
自分も詳しくはありませんが
ブレイクが上の詩集でいう
「経験」というのは
「無垢」の対概念ではなく、
「無垢」なるものの中にすでに
「経験」が存在していると
考えていたようです。
このときの「経験」というのは
「原罪」とほぼ同義のようで、
生まれたばかりの赤ん坊にすら
両親にわがままを通そうとする企みがある、
そこにブレイクは原罪を見たのだとか。
(以上は、こちらのブログを参考にしました)
ところで「無垢」というのは
仏教語としては
煩悩から完全に解き放たれた
仏の境地を指しているようでして
(これについてはこちらの記事を参照)
このことをふまえるなら
「ブラウンの神父の無垢」と訳してしまうと
上に書いたブレイクの
「経験」を含みこむ「無垢」、
無邪気と邪気が
ひとつの精神に同居するありよう
というニュアンスが出てこない。
いってみれば
ブラウン神父は神の代理人ではなく
神そのものというニュアンスが
入ってきてしまうという感じでしょうか。
だから「無垢」という訳語が
選ばれなかったのではないか
と愚考する次第です。
語呂より語感の問題なのではないか
ということです。
ちなみに上のブレイクの詩集のタイトルは
『無心の歌、経験の歌』(土居光知)
『無心の歌、有心の歌』(寿岳文章)
とも訳されたことがあるようなので
その意味では
『ブラウン神父の無心』という邦題は
なかなかいいのかもしれません。
もっとも椿實のように
「生れながらの、けがれなき無心を
イノセントという。[略]
童心(中村保男訳)や
純智(橋本福夫訳)と訳されるが
無垢・無心というに近い」
(「ブラウン神父の哲学」『ユリイカ』1989.7)
という人もいますから
「ブラウン神父の無垢」でも
結局のところ、いいのかもしれませんが(苦笑)
なお、蛇足ながら
手許の『リーダーズ英和辞典』には
innocence の訳語として
「無罪、潔白;清浄、純潔;(道徳的)無害;
無邪気、天真爛漫;単純、無知;
純真[単純]な人」とあがっていて
「無垢」という訳語は出てきません。
形容詞の innocent になると
「無垢の」という訳語も含まれてきます。
辞書が常に正しいとは限りませんが
訳語がこんなにあがっている以上
innocence を「素直に」訳すと
「無垢」になるとは、必ずしも
いえないように思う次第です。
とか書いてると
英英辞典の説明が気になってきますが
残念ながらウチには
英英辞典はありませーん(;´▽`A``
『ブラウン神父の無心』(1911)の原題
The Innocence of Father Brown を
「素直に『ブラウン神父の無垢』だと
……語呂が悪いですかね?」
というコメントへのレス、
きちんと応じると長くなりそうなので
この記事をレス代わりとさせていただきます。
というか、レスをネタに
記事を一本書かせてもらうという(^^ゞ
innocence という言葉は
シリーズ第2弾
『ブラウン神父の知恵』(1914)の原題
The Wisdom of Father Brown の
wisdom と対になっていて
それはあたかも
ウィリアム・ブレイクの
『無垢と経験の歌』(1794)
Songs of Innocence and of Experience
における innocence と experience の如し
といったのは
『無心』の訳者の一人・南條竹則です
(ちくま文庫版の「訳者あとがき」参照)。
ところでチェスタトンは
ブレイクの評伝も書いていて
同書が出版されたのは1910年。
これは『無心』をまとめる前年でした。
したがって
The Innocence of Father Brown
というタイトルを考えたとき
チェスタトンの念頭には当然
ブレイクの『無垢と経験の歌』が
あったのではないか
と想像されます。
自分も詳しくはありませんが
ブレイクが上の詩集でいう
「経験」というのは
「無垢」の対概念ではなく、
「無垢」なるものの中にすでに
「経験」が存在していると
考えていたようです。
このときの「経験」というのは
「原罪」とほぼ同義のようで、
生まれたばかりの赤ん坊にすら
両親にわがままを通そうとする企みがある、
そこにブレイクは原罪を見たのだとか。
(以上は、こちらのブログを参考にしました)
ところで「無垢」というのは
仏教語としては
煩悩から完全に解き放たれた
仏の境地を指しているようでして
(これについてはこちらの記事を参照)
このことをふまえるなら
「ブラウンの神父の無垢」と訳してしまうと
上に書いたブレイクの
「経験」を含みこむ「無垢」、
無邪気と邪気が
ひとつの精神に同居するありよう
というニュアンスが出てこない。
いってみれば
ブラウン神父は神の代理人ではなく
神そのものというニュアンスが
入ってきてしまうという感じでしょうか。
だから「無垢」という訳語が
選ばれなかったのではないか
と愚考する次第です。
語呂より語感の問題なのではないか
ということです。
ちなみに上のブレイクの詩集のタイトルは
『無心の歌、経験の歌』(土居光知)
『無心の歌、有心の歌』(寿岳文章)
とも訳されたことがあるようなので
その意味では
『ブラウン神父の無心』という邦題は
なかなかいいのかもしれません。
もっとも椿實のように
「生れながらの、けがれなき無心を
イノセントという。[略]
童心(中村保男訳)や
純智(橋本福夫訳)と訳されるが
無垢・無心というに近い」
(「ブラウン神父の哲学」『ユリイカ』1989.7)
という人もいますから
「ブラウン神父の無垢」でも
結局のところ、いいのかもしれませんが(苦笑)
なお、蛇足ながら
手許の『リーダーズ英和辞典』には
innocence の訳語として
「無罪、潔白;清浄、純潔;(道徳的)無害;
無邪気、天真爛漫;単純、無知;
純真[単純]な人」とあがっていて
「無垢」という訳語は出てきません。
形容詞の innocent になると
「無垢の」という訳語も含まれてきます。
辞書が常に正しいとは限りませんが
訳語がこんなにあがっている以上
innocence を「素直に」訳すと
「無垢」になるとは、必ずしも
いえないように思う次第です。
とか書いてると
英英辞典の説明が気になってきますが
残念ながらウチには
英英辞典はありませーん(;´▽`A``