
(角川文庫、1983年8月25日発行)
例によって
必要があって読み直しました。
以前紹介した
『にごりえ殺人事件』(1984)のオビに
「第37回日本推理作家協会賞
長編部門受賞作家の
受賞後第一作!!」という
惹句が載っていたことに
気づいた方もいるかもしれませんが
その協会賞受賞作が、今回紹介する
『ホック氏の異郷の冒険』です。
上に掲げた写真のように
最初から文庫書下しの形で
刊行されました。
その後、二回ほど
文庫版で再刊されてますが
四六判ハードカバーや新書の形で
刊行されたことはありません。
オビの惹句に
「ホック氏とは一体誰?」
と書かれていますが
カバーのイラストで
誰もが見当がつくでしょうし
解説では堂々と明かされていますので
ここでも分かっていることを前提として
以下、内容について書いていきます。
犯罪界のナポレオンと称された
モリアーティー教授との死闘の末
勝利したシャーロック・ホームズは
自分を死んだと思わせて
数年間、身をくらませます。
その間、ノルウェーの探検家として
チベットに渡ったりした、などと
後にホームズ自身の口から
ワトスンに語られますが
その「大空白時代」に基づいた
パスティーシュも
数多く書かれています。
『ホック氏の異郷の冒険』は
その大空白時代にホームズが日本に来ていた
という想定で書かれたパスティーシュです。
それまでにも日本および日本人と絡む
ホームズ・パロディないしパスティーシュは
何編かありましたが
(有名なところでは
山田風太郎の「黄色い下宿人」など)
いずれも短編で、長編はありませんでした。
よく知られていると思われる島田荘司の
『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』が出たのは
本書よりも一年遅く
『ホック氏の異郷の冒険』が
日本および日本人がらみの
長編パスティーシュの嚆矢となります。
(これは本書の解説にも書かれている通り)
舞台は1891(明治24)年の東京。
睦奥宗光が華族会館(旧・鹿鳴館)で
重要な機密文書を盗まれ
その事件を、陸奥と親しい医師の榎元信と
サミュエル・ホック氏が調査する
というお話です。
ホック氏が絡むのは、盗まれた機密文書が
イギリスとも関係しているからです。
榎医師の子孫が蔵を整理している際に
医師が書き残した書類が発見され
それを子孫が現代文に書き改めて発表した
という、お馴染みの枠組みが設定されており
原典同様、医者が語り手を務める
というのも心憎い趣向です。
その他にも
開化殺人帖シリーズのレギュラーだった
中条小警部と梶原刑事も登場し
二人のサポートにあたります。
いうまでもなく
中条小警部と梶原刑事は
本作品が初登場ということになります。
ただし時代背景は
開化殺人帖シリーズの
『死人起こし』(1990)より
後になっていますので
お間違えなきよう。
(『死人起こし』は
1890年=明治23年に起きた事件
という設定です。
本作品での事件の1年前ですね)
文明新聞社が登場しないのは
国政に関わる秘密捜査だったから
ということにしておきましょう(笑)
なお、事件解決後、
両者とも出世しています。
さすがにこうなれば
前沢天風に自慢しないわけもなく
解決後には何らかの話を
しているかもしれませんね。
そこらへん
開化殺人帖シリーズの番外編として
シャーロキアン的な楽しみ方も
できましょう。
『ホック氏の異郷の冒険』は
原典であるホームズ・シリーズの雰囲気を
よく伝えているだけでなく
暗号トリックや意外な犯人トリックなど
ミステリとしても
気の効いたアイデアが散見されます。
密室トリックも出てきますが
これはトリック自体よりも
密室にする必然性が留意されている点に
ポイントがあるとはいえ
トリックに魅力がなく
密室状況が出てきた途端に解決されるので
やや物足りない印象。
そういうところもあるし
事件関係者が多過ぎて
複雑になりすぎた嫌いがあり
初めて読んだ時は今イチと思ってましたが
改めて読み直すと
真犯人が意図しないのに
状況がどんどん複雑になっていくあたりは
むしろ現代的かもなあ、と
印象を新たにしたことでした。
全体としては優れたパスティーシュとして
充分、読むに堪える出来映えのものです。
今回、読み直して
一点、気になった箇所がありました。
「冷静さはこういう場合、
もっとも必要なものだ。モト」
と、ホック氏は青い瞳(め)で
私を見据えながらいった。(p.113)
ホック氏の目の色については
他に二箇所で言及されていて
「灰色の瞳(ひとみ)」(p.18)
「深い湖のような灰色の瞳」(p.297)
と書いてあるので
これは明らかにケアレスミスかと思います。
このあとに刊行されている文庫版では
直っているかもしれませんが、念のため。
ちなみに「モト」というのは
語り手の医師・榎元信を
ホック氏が呼ぶ際のニックネームですが
これは本書の解説にもあるように
ジョン・マーカンドのキャラクターで
映画化されて有名になった
ミスター・モトという日本人スパイの
名前を踏まえた、洒落です。
ミスター・モト・シリーズ、
翻訳もありますが
今の人には馴染みが薄いでしょうから
老婆心ならぬ老爺心ながら一言。
なお、初版本が刊行された当時は
角川映画版の、というか大林宣彦版の
映画『時をかける少女』が公開された時期で
オビ裏にはその宣伝が載っており
そして封入されていたしおりは
「映画優待割引券」になってました。
今となっては懐かしく珍しいので
以下に写真を掲げておきまましょう。

●修正(翌日、8:00ごろの)
密室トリックについて言及した部分
ちょっとあからさますぎるので
直しました。