
(講談社、2012年8月1日発行)
今年度(第58回)江戸川乱歩賞受賞作です。
遅ればせながら読了しました。
ロシアの文豪ドストエフスキーの小説
『カラマーゾフの兄弟』(1880)の続編
という設定で書かれています。
『カラマーゾフの兄弟』では
カラマーゾフ家の当主フョードルが
撲殺されるという事件が起き
長男ドミートリイが逮捕され
無罪を訴えながらも
裁判によって罪が確定しますが
実は犯人は別人だったという
ミステリ的なストーリーが盛り込まれています。
高野作品は
内務省の未解決事件特別捜査官となった
カラマーゾフ家の次男イワンが
13年前の父殺しを再調査するという話です。
ドストエフスキーの原作の方は
小学校高学年か中学生のころに
子ども向けの翻訳(もちろん抄訳)を
学校の図書室で借りて
読んだ記憶があります。
子ども向けとはいえ
なんでそんなものを読んでいるかというと
推理クイズ本の
『ホームズからの挑戦状』(学研、1973)だか
『ルパンからの挑戦状』(同、1974)だかの
欄外コラムに
世界文学の名作で
ミステリとしても読めるものとして
紹介されていたからです。
いくら紹介されているからといって
読む方も読む方ですが
子ども向けに訳す方も訳す方か、と。
(出版社はまーったく覚えてません)
その初読の際
真犯人が残り数ページで
いきなり告白したこともあり
(当然、犯人を詰める論理などなく)
つまらなかったことだけは
覚えてます。
まあ、当然といえば当然で
ある種の本は読む年ごろというべきものが
あるものなのですよ、やっぱり。
今回、高野作品を読んで
まあ、犯人を思い出しはしましたが
その新しい解決が妥当かどうか
合理的かどうかは判断がつきません。
『カラマーゾフ』の続編として
妥当かどうかも判断がつかない(^^;ゞ
ただ、この手の趣向をとると
どうしても辻褄合わせという印象は
拭えないわけでして
そこは割り切って物語として読んだ方が
いいのかなあとも思ったり。
あと、物語そのものよりも
創作舞台裏というか
『カラマーゾフ』の時代でも
こういう設定はありなんだよ
という説明を聞く方が
面白いような気がしました。
ミステリ・ファン向けにいうなら
ディクスン・カーや芦辺拓の
歴史・時代ミステリの最後についている
「好事家のためのノート」みたいなもの
というか……。
作中には、多重人格やらサイコパスやら
ディファレンス・エンジンやら
宇宙ロケットやらが出てくるのですが
そういうものを出しても
時代背景と矛盾しないという説明や
現代なら多重人格やら
サイコパスと呼ばれるものに相当する症状が
ドストエフスキーの小説に正確に描写されている
といったような解釈の説明などの方が
もしかしたら物語より面白いんじゃないか
という気がされてならない。
いってみれば新書か何かで出す
研究エッセイ的なものなら
よりワクワクさせられたんじゃないか
ということです。
先行研究で『カラマーゾフ』の
ミステリ的な部分について
どういう解釈が積み立てられてきたのか
というところも興味を引かれるところ。
イワン捜査官はロシアを訪れた
シャーロック・ホームズの調査を見ている
という設定になっていますが
作中でいわれるトレポフ事件というのは
「ボヘミアの醜聞」に出てくる
いわゆる語られざる事件のひとつです。
そこらへんは
探偵役たるべき背景が押さえられていて
なるほどという感じで面白かったのですが
かといって
推理の面白さが突出しているかといえば
常識的な感じで物足りないのが残念でした。
ミステリ的な部分とは
あまり関係ありませんが
カラマーゾフ家の三男
アリョーシャの台詞で
印象的なものがありました。
「人は今まで、
神の名のもとに人を裁いてきました。
でもこれからは、
人が人の名のもとに
人を裁く時代がやって来る。
神の道徳とは違う、
法律でもって裁くんです。
法律は人が作るものです。
陪審員裁判は、この新しい時代の
象徴なんですよ……」(p.91)
これはチェスタトン流の保守主義思想に
近しいものを感じさせます。
ちなみに、『カラマーゾフの兄弟』に
陪審員裁判が出てきたことは
すっかり忘れておりました。びっくり。
「奇跡とは信仰の証や
信心深さのご褒美として
与えられるものではなくて、
純粋に楽しむために
与えられるものなんだって。
(略)
奇跡がなければ
維持できないような信仰は、
それは本物の信仰じゃないんです」
(pp.295-296)
これは内田樹のレヴィナス論を
連想させるものがあると思いました。
原典が原典だけに
思索的な言説が出てくるのは
当然なのかもしれませんが
真相やストーリーを追うだけの
物語でないところは
ちょっといいかも
と思ったりした次第です。