
(南雲堂、2012年5月28日発行)
『探偵小説の論理学』(2007)の続編です。
『探偵小説の論理学』は
バートランド・ラッセルの
還元公理(あるいは記述語論)を援用して
探偵小説でいうところの「論理的」とは
どういう知の営為を指すのかを論じ、
ゴットフリート・ライプニッツの
モナド論の概念を援用した
様相論理学的な視点を用いて
現代日本ミステリの
いわゆる脱格系の作品を
見事に論じてみせた本でした。
小森さんは限界研のメンバーでもあり
『探偵小説の論理学』で提示された考え方は
先の『21世紀探偵小説』収録の
各人の論文にも共有されています。
モナド論の概念を援用した
様相論理学というのは
要するに可能世界論的な考え方で
モナドというのは
個々人の主観(的世界)であり
個々のモナドは相互に貫通する
超越的な存在はない、
世界というのは主観の集まりである
と、自分流に言い直せば
そういうことになります。
そこから小森さんは、たとえば
ツンデレのような
ツンであってデレでもあるような
かつての常識的な理解では
同時に存在しえないありようが
ありえてしまうような状況が
現代(現代日本)ではありえてしまう、
現代のいわゆる脱格系のミステリも
そういう世界認識(ロゴスコード)を
前提としている、
だから従来の本格ミステリの論理
ないしは読解認識では捉え切れないような
そんな奇妙な作品なのだ
ということを述べているわけです。
個人的には小森さんのいうロゴスコードは
文学研究でいうところのコンテクストと
たいして変わらないと思っていたのですが
コンテクスト(文脈)というのは
過去から未来へと流れる時間が
すでに常に織り込み済みの概念のようで
従来の用語でいえば
通時的な把握に基づく概念であるのに対し
ロゴスコードは共時的な把握に基づく概念
ということなのかもしれません。
『探偵小説の様相論理学』では
前著では西尾維新の作品論を通して
簡単に済ませた様相論理を中心に
現代の本格ミステリを論じたエッセイを
集めています。
全三部のうち第二部は
様相論理学についての概説で
具体的なミステリ作品に即してではなく
様相論理学の発展史が中心となりますので
やや読みにくい。
それでも前著の第一部よりは
読みやすい気がするのは
小森さんの説明が上手くなったからなのか
こちらが慣れてきたからなのか。
第一部で面白いのは石持浅海の作品論で
当然、論理的な可能性として
検討すべき論理をすっ飛ばした
推理や思考をする
登場人物のありようを問題にしているところ。
ただし、小説が論理学の書物ではない以上
登場人物が常に必ずしらみつぶし的に
正しい論理を展開する必要はないはずで
むしろそうした
しらみつぶし的な論理ではないところに
キャラクターの属性が現われると
見るべきではないか、とは思うのですが。
『21世紀探偵小説』では
小森さんとは別の論者が
しらみつぶし的でない登場人物の論理を
いったんは受入れて、それを個性として
論じていたように思います。
もうひとつ、後期クイーン的問題に関して
犯人は様々な属性から規定されるのですが
その属性は様相論理学的には確実ではなく
単に偶然、真であっただけかもしれない。
犯人は「こういう属性をもつ」という
カッコの部分にあたる述語記述を重ねるのが
ラッセルのいう還元公理に基づく
論理的に真であることを決定する手続きなのですが
様相論理学の視点からすると
必然的に真であるとはいえない。
後期クイーン的問題というのは
様相論理学の立場に立って
世界を把握することから生じる問題だ
というのが面白かったです。
「論理を追究して
なおも扱い切れない
余剰が生じる領域が、
ミステリの評論では
〈後期クイーン的問題〉と
名づけられた」(p.149)
とも書かれていますが
こういうフレーズを読むと
かつての本格ミステリは
余詰めが生じないことが
ひとつの評価軸になっていたことが
思い出されます。
後期クイーン的問題というのは
単純にいってしまえば
偽の手がかりによって操られた探偵が
最終的に真相に到達したとしても
それが新たな偽の手がかりによる
誤まった解決でないと証明することは
作品内においては不可能だということです。
エラリー・クイーンという
アメリカの探偵作家が書いた
40年代以降の後期作品に
そうした偽の手がかりによって
探偵を誤導する〈操り〉テーマが
よく出てくることから
「後期」と名づけられました。
ただし、作家活動の初期にあたる
『ギリシア棺の謎』(1932)に
すでに偽の手がかりテーマが扱われていて
そこで探偵役のエラリーが
最後に到達する真相は
果たして真であるのか
という形で論じられることも最近ではある
というか、最近はそちらが主流かもしれません。
小森さんのいう様相論理学を導入すれば
最終的な進級としての真実というのは
論理的にはあり得ないということにも
なるわけですけど
こういう議論を傍で聞いていて思うのは
絶対に正しい真実に到達しなければならないのが
本格ミステリなのか、ということですね。
論理的な推理によって真実は暴かれる
というのが本格ミステリの
基本的な形式であることは疑いをいれませんが
日常生活やミステリ小説における推理と
論理学における推理とは違うわけで
厳密に論理的に考えれば
真実が曖昧になるのは
当たり前だという気がします。
だから、後期クイーン的問題など
本格ミステリには存在しない
といってしまっては
それはそれで生産的ではない気がします。
名探偵の推理は絶対的に正しい
余詰めのないものであるという意識が
無前提に信憑されていた
一定の読者・愛好者がいたこと
それこそ、そうしたロゴスコードを
共有していたコミュニティが存在した
ということなのではないか
それはなぜなのか
という論題を立てるのも
ありだと思うのですけど。
小森さんは石持浅海の作品を論じて
論理の詰め落とし、飛躍を
ありえないこと、おかしいことと
書いているわけですが
それはある一つのロゴスコードに
拠っているからではないか。
登場人物はすべての可能性を詰めて
最も合理的あるいは合目的的な判断をし
行動をするという考え方は
ジェフリー・ディーヴァーにまで共有されている
アメリカ的なプラグマチズムの発想であって
まさに本格ミステリというのは
そういうプラグマティックな発想に
親和的な文芸ジャンルなわけですが
そこを外して一般的な文学テクストとしてみれば
石持作品のキャラクターのいい落としというか
論理の詰め落とし、死角のようなものこそ
石持ミステリのいわば文学性だとも
いえるわけです。
本格ミステリを論じている評者に対して
上のようにいうのは
論点のズラしかもしれませんが
個人的には上のように思っちゃうので
石持作品が変だとは思わないのです。
先に引き合いに出した『21世紀探偵小説』は
上に書いたような詰め落としが
21世紀探偵小説のロジックの特徴だとして
そういう新しいロジックに基づく
探偵小説の可能性について
考えようとした本
ということになりましょうか。
ちなみに本書の第二部では
ソール・クリプキの『名指しと必然性』が
踏まえられています。
たまたま持ってるし
以前読んだこともありますが
その時はチンプンカンプンでした。
今回、小森さんの本を読んで
なるほど、あの本は
そういうテーマの本だったのかと
目からウロコだったのが収穫でした。
こちとら凡人ですからね
こういうふうに使える本だとは
思いもよりませんでしたよ(苦笑)
うーん、興味を持つ人は少ないだろうに
長々と語ってしまった( ̄▽ ̄)
例によって備忘的メモということで
ご容赦ください。長文深謝。m(_ _)m