最近のネタがないので
今回は(今回もw)マニアックな話で
お茶を濁させていただきます。


以前、ジョン・ディクスン・カーの、
もとい、カーター・ディクスンの
『貴婦人として死す』という作品を紹介した時に、
お気に入りのミステリ作家である
都筑道夫が傑作といっていたと書きました。

そのとき意識していた都筑の発言は
『ミステリマガジン』1977年7月号の
ジョン・ディクスン・カー追悼特集号に載っている
「私のカー観」を意識していたんですけど、

$圏外の日乘-『ミステリマガジン』1977年7月号

先日、出たばっかりのエッセイ集
『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』

$圏外の日乘-『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』
(フリースタイル、2012年4月15日発行)

に、増補分として収録されたエッセイ
「眠りの森」の中でも、ふれられてました。


「眠りの森」はもともと
『ミステリマガジン』に連載した自伝的エッセイ
「推理作家が出来るまで」の第146回
(1988年8月号掲載分)に当たります。

その後『推理作家が出来るまで』の
下巻(2000)に収録されました。


「私のカー観」(1977)では
「『貴婦人として死す』のトリックには、
 無理がない。もちろん、
 トリックに無理がなければいい、
 というものではないが、
 この作品は洗練されていることでも、
 カーの諸作ちゅう群をぬいている」
と書いていましたが
「眠りの森」(1988)では
「ディクスン・カーは、
 大衆作家としての資質があって、
 ストーリイを語る技術に、
 一作ごとの進歩があった。
 『貴婦人として死す』のナンセンスや、
 『バトラー弁護に立つ』の話術なぞ、
 にくらしいくらいである」
と書いています。

ほぼ10年経っても
基本的な意見は変ってませんが、
評価の言い回しが微妙に異なっています。

「眠りの森」の方は
カーが話題の中心ではないので
一言で済ませたものでしょうけど、
その一言が「ナンセンス」だというのが
面白いですね。

訳文にもよるのでしょうが
『貴婦人として死す』全体の雰囲気は
ナンセンスなものではありません。

犯人が、自分でも気づかない内に
大ボケをかましてしまい、
それが探偵側からすれば謎になる
というところは
「ナンセンス」な可笑し味がある
といえなくもないですけど。

都筑先生、「眠りの森」を書く際
『貴婦人として死す』を読み返さないで
シチュエーションの記憶だけで書いたから
「ナンセンス」なんて
いったのかもしれませんね。


『黄色い部屋はいかに改装されたか?』の
表題となったエッセイでは、
カーの影響を受けたから
日本の本格ミステリはダメになった
というようなことが書かれています。

このエッセイだけを読むと
都筑はカーが嫌いだったのか
と思われそうなんですが、
一般的なカーの愛読者とは
視点が違っていただけでして、
そういうことがちゃんと伝わるように、
せっかくの増補版でもありますし
「私のカー観」も
収録して欲しかったかなあ、と。


『黄色い部屋はいかに改装されたか? 増補版』は
謎ときミステリ・ファンなら必読の名著
ということを書こうと思ってたんですが、
キーボードを打ちはじめたら
話がそれちゃいました。(^^ゞ