$圏外の日乘-『街場の読書論』
(太田出版、2012年4月29日発行)

奥付を打っていて気づきましたが、
この日付通りなら、
まだ出てない本になっちゃいますね。

でも、この本、
『プリキュア シンドローム!』を買ったとき
(というのは、前田知香さんの
 晴れ豆でのライブの日ですが)
もう書店で平積みになってましたけどねえ。

まあ、いいけど。


自分にとって、内田樹は
新刊が出るたびに
今度のは(買わなくても)いいかなあ
と思いつつ、ついつい買ってしまう
書き手の一人です。

初めて内田樹の文章に接したのは、
実は河合塾のテキストで、だったりします(藁

それは
『他者と死者——ラカンによるレヴィナス』

$圏外の日乘-『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』
(写真左:海鳥社、2004.10.20)

の一節でした。

それを、生徒としてではなく
小論文の採点者として読んで、
これは面白そうだと思って
書店で購入したのがきっかけです。

まだ文春文庫版が出る以前のことです。
(上掲写真右:2011.9.10)

ハンディな読みやすい形ので
持ってたいなあと思って、
文庫版も購入したんですけどね(^^ゞ


『街場の読書論』の335ページにある
ネットの著作権について書いた文章の中で

 「予備校の教室などで言及されても
 一文にもならぬ」と考えるのはシロートで、
 大教室の予備校生の中にひとりくらい
 「なんか面白そうだな。この人の本、
 帰りに本屋で探してみようかな」
 というような展開になるというのは
 あながち荒誕な夢想とは言い切れぬのである。

と書いてありますが、
まあ自分は予備校生じゃないけど
確かに「荒誕な夢想」ではなかったわけです(藁


ただし、内田本を手にとったのは、
その小論文のテキストで知ってから
たまたま書店で
『先生はえらい』

$圏外の日乘-『先生はえらい』
(ちくまプリマ—新書、2005.1.25)

を見かけて
(今にして思えばグッド・タイミングでした)
買って読んだのが、最初だと思います。

どうして読んだ順序を
そんなふうに覚えているかというと、
『他者と死者』がなかなか見つからなかった
というだけでなく、その後ようやく
『他者と死者』を手に入れて読んだら、
『先生はえらい』の内容が
ほとんど『他者と死者』の内容を
パラフレーズしたものだと気づき、
おいおい(苦笑)
と思った記憶があるからです(藁


内田樹の本には
たまにそういうことがあって、
買っても読む気を喪失する時もあるのですが、
(あと、題材に興味が持てないもの。
 それでも読み始めると
 引き込まれるとは思うんですが)
こっちだって読んだことを
すべて覚えているわけではないから、
しばらく時間を置くと
前と同じように面白く読めるというわけ。

今回の『街場の読書論』は
ネットのホームページで読んだ記事があったりして
やや既視感が強い内容ではありましたし、
もしかしたら『街場のメディア論』(2010)と
ほぼ同じ内容を展開しているのかもしれない
と、前に書いたのを読み直して思ったのですが
やっぱり『街場のメディア論』の内容は
細かいところは忘れているので(苦笑)
飽きずに読み切っちゃいました。


言及・紹介されている本の書誌なんかが
各文章の最後に出てたりしますけど、
おススメ本ガイドブック
といった体の本ではありません。

人にメッセージを伝えるとはどういうことか
メッセージが伝わるとはどういうことか、
ということをめぐる話がメインだと
いえばいえますが、
それは特に第五、六章に
顕著なテーマであって、
全体の特徴を示したことには
ならないかもしれないし。

おなじみの教育論を語る章もあるし。

本は商品じゃない
商品としてのみ扱うべきものではない
ということを書いた本ともいえるでしょうし。

でもまあ、自分にはとても面白かった、
とりあえずそれでいいんだと思います。


当方のブログでは
紹介しはぐってしまいましたが、
近著だと
『呪いの時代』

$圏外の日乘-『呪いの時代』
(新潮社、2011.11.20)

が、最高に面白かったです。

ちゃんと、あるいは「きりっと」
生きていこうという気になれる本でした。