
(2002/光文社文庫、2008.11.20)
ちょっと必要があって読み返しました。
1970年代のフランスを舞台に、
矢吹駆(やぶき・かける)という
パリ在住の日本人を探偵役とし、
パリ警視庁・警視の娘ナディア・モガールを
ワトスン役とするシリーズの第5作目です。
ただし今回の舞台はギリシャ。
旧友に頼まれて医療上の資料を届けるため
ナディアはカケルと共に
クレタ島南岸の小漁村沖にある牛首島
俗称ミノタウロス島に建つ
ダイダロス館に向かいます。
嵐によって連絡船が流され、
また電話線が切れて(切られて?)しまい、
ダイダロス館に閉じ込められた人々の間で
連続殺人事件が発生する……。
つまり、本作品は
アガサ・クリスティーの
『そして誰もいなくなった』を本歌取りした
孤島もの、ないし
クローズド・サークルものなのです。
もちろん犯人の設定は違いますが、
作中ではクリスティーの方の犯人に
言及してますので、
これから読もうという人は、ご注意あれ。
見立て殺人の謎(過剰に装飾された死体の謎)や
密室トリックも出てきます。
矢吹駆シリーズでは第2作目以降、毎回
著名な哲学者や思想家をモデルとした
人物を登場させ、
矢吹駆と思想的な対話を交わす
という趣向があり、それも
読みどころのひとつなのですが、
本作品ではミシェル・フーコーの
権力論を踏まえた議論が展開されます。
そうした議論に、ミステリにおける
孤島ものについての議論も絡んできます。
そうした議論が
論文のように完結性のあって
議論の場面で常に
明確な結論が示されるというわけではなく、
中途で途切れたりもするので、
読み手が再構成する必要があり、
かなり集中力が求められます。
本作品に関しては、連載をまとめたせいでしょうか
全体的にややくどい印象がないこともないです。
そのくどさをくどいと取るか、
饒舌な面白さと受け取って
楽しめるかどうかによって、
印象はかなり変わると思います。
今回久しぶりに読み直したんですが、
最終章で倫理について書かれていたことを
すっかり忘れていたので、
そこに(そこかい!【藁】)
びっくりしたり、感心したりしました。
自分の不注意によって
何人もの人間が死んだことに悩む
ナディアに対して、
カケルは次のように言います。
「そうした疾しさの意識に、
イリイチのような存在はつけ込んでくる。
いいかい、ナディア。
不注意だったきみが悪なのではない、
責任を負えないことにまで
責任を感じてしまうこと、
いつも正義の側に身を置いていたいと
自堕落に願ってしまう精神的な弱さこそが
悪なんだ。
どんなに苦しく感じようとも、
この真実をきみは飲み下さなければならない。
(略)
倫理は『殺してはならない』
というところになんかない。
たんに殺さない、たんに殺せないという事実が、
倫理的なるものの根底にはある。
『してはならない』という
当為から出発する倫理は、
イリイチのような存在につけ込まれ、
最終的にはグロテスクな倒錯に行き着いてしまう。
真剣に『殺してはならない』と思い悩んだ結果、
大量虐殺を犯してしまうような
逆説の罠に足を取られるんだ」
(光文社文庫版、下巻、pp.538-539)
原文では「悪」に傍点が打ってあります。
イリイチというのは、
カケルが追っている〈悪〉の存在で
国際的なテロリストです。
毎回、イリイチにつけ込まれた人間が
罪を犯すというのがシリーズの趣向です。
「いつも正義の側に身を置いていたいと
自堕落に願ってしまう精神的な弱さ」とか
(要するに、いつも勝ち組でいたい、
いるべきだと思う、ということです。
……ちょっと違うかな?【藁】)
「『してはならない』という
当為から出発する倫理は」、
「最終的にはグロテスクな倒錯に行き着」く
(要するに、「してはならない」という考え方は
自分や他者に対する
「こうすべきだ」という強制につながり、
例えば、正義のために人を殺して顧みない
ことになりかねない、ということです)
とかいったフレーズは
厳しさと優しさが兼ね備わっていて
(と思うんですが)
今さらながら感銘を受けている次第です。