
(早川書房、2011.10.25)
作者名は「もり あきまろ」と訓みます。
早川書房が主催する
世界で唯一、遺族も公認の
アガサ・クリスティー賞
第1回受賞作品です。
もっともアメリカには
マリス・ドメスティックという
ミステリの愛読者団体が主催する
アガサ賞というのもありますが、
早川のは遺族公認というのがミソ。
(なんでしょう、たぶん)
第1回授賞式の記念イベントには
クリスティーの実孫
マシュー・プリチャードが
講演にやってきてました。
弱冠24歳で大学教授となり
美学を教えている通称〈黒猫〉と
その「付き人」である
ポオ研究者の女子大学院生「私」とが
六つの事件の謎を解く短編集です。
両キャラクターとも実名は伏せられています。
ポオの有名作品をめぐる蘊蓄に加え、
帝政時代のフランスの都市計画とか
ワーグナーとかギリシャ音楽とか
世阿弥とかマラルメとか
『アベラールとエロイーズ』とか
いろいろと蘊蓄がちりばめられた作品集で
そうした蘊蓄が事件の解決と
密接に結びついている、というのがミソ。
とか書くと、
敬遠してしまう人もいそうですけど
割とサクッと読めます。
そうしたペダントリー尽くしの影響もあってか
全体的に線が細いというか、
事件関係者が、
血の通ったキャラクターという感じがしない。
といういい方もベタな気がしますけど(苦笑)
衒学の部分が面白いんですが
その衒学に合わせて
キャラを動かしている感じがするというか、
シニフィエなきシニフィアンが
テクストを満たしているというか、
表層的な解釈の戯れだというか、
要するに、とにかく抽象的なので
いわゆる普通の意味でのリアリティが
感じられません。
地に足の着いた感じがしないとでもいいましょうか。
若い時にこういうのを読むとシビレる感じ(苦笑)
アガサ・クリスティーというよりも
G・K・チェスタトンに近い気もします。
クリスティーは基本的にリアリストだと思うので
『黒猫の遊歩』みたいなタイプの作品は
書いてないかと思います。
『クィン氏の事件簿(謎のクィン氏)』
という短編集もありますが、ちょっと違う。
ただ、チェスタトンのミステリは
共有されている、いわゆる常識があって
それをひっくり返してみせるので
こちらの認識を揺らがせるパワーがありますが、
『黒猫の遊歩』の方は
そういう常識のようなものが前提されておらず
最初から最後まで衒学の中で
解釈ゲームに淫している感じがします。
たとえば第4話「秘すれば花」なんて、
非常に観念的で、ある種、倫理的な
恋愛もののようにも
読めなくはないのですが、
そこまで自分を律する人なんているかしら
という感想を抱かざるを得ない。
第1話「月まで」と第6話「月と王様」も
恋愛絡みの話ですけど
やっぱり非常に観念的、精神的な感じがします。
観念的、精神的な恋愛を描いた小説が
悪いとはいいませんし、
そういう恋愛がらみの謎解きミステリも
ないことはないんで、
まだなんとか付いていけるんですけど、
第2話「壁と模倣」と第5話「頭蓋骨のなかで」は
これは恋愛がらみではなく
(「壁と模倣」は恋愛も絡みますけどね)
あえていえば両方とも才能をめぐる話です。
この二つは特に納得のいかないことが多く、
謎の対象となる人物が精神的に
病んでいるというか壊れているというか
そういうことを受け入れないと
納得しかねる話だと思います。
そういう、精神的に病んだり
壊れたりしていることを
前提としたスタイルの謎解きではなく、
美的解釈を当てはめるスタイルの謎解きなので
図式的な感じがされ、説得力が感じられない。
もっとも〈黒猫〉は
美的なものがないと解決する意欲が持てない
というようなことを言っているので、
あえて美的解釈を当てはめて
戯れているのかもしれず、
それを付き人である「私」が
ワトスンよろしく感心しているだけかもしれない
なんてことも思ったりします(藁
草食系ミステリとでも、いえばいいでしょうか。
これを宝石のように、大切に思う読者がいても
おかしくないような印象を抱かせる作品でした。
装丁はちょっとオシャレ。
オビを外してカバーを広げると
これこの通り。
