今回の地震を経験・見聞して思い出した
というか、連想した小説のひとつです。
今、手もとにあるのは
これ↓ですが

(1933/井上勇訳、創元推理文庫、1960.3.11)
初版には真鍋博イラストのカバーは
付いてないかと思います。
現物を見たことないけど(^^;ゞ
上のは1980年1月11日発行の42刷です。
奥付の年月日付で買ったのだとしたら、
読んだのは高校生の頃ですね。
最初に読んだのは鶴書房盛光社の
〈ミステリ・ベストセラーズ〉という
子ども向けのペイパーバックス版です。
中学生の頃で
図書館から借りたか
友人から借りたかで読んだんでした。
作者と同じ名前の青年探偵が登場する
いわゆる〈国名シリーズ〉の第7作目で、
自然災害に巻き込まれるサスペンスと
謎解きの面白さ、特に推理の面白さとを
兼ね備えた秀作です。
いちおう、以前にも一度目を通してますが、
今回、久々に再読してみました。
ドライブ帰りに山火事に遭遇したエラリーと
その父親リチャード(ニューヨーク市警の警視)は
火災を避けて山を登るうちに
矢の根荘という山中の屋敷にたどり着きます。
幸い泊めてもらえることになりましたが、
翌日、屋敷の主人が死体となって発見されます。
死体の手にはトランプのカードが1枚、
半分に破られて残っていました。
このカードがダイイング・メッセージ
(死に際の伝言)であると考えたクイーン警視は
ある人物を犯人だと告発するのですが……
麓から山火事の炎が屋敷に刻々と迫る
というシチュエーションを設定し、
警察の鑑識などの科学捜査抜きで
純粋に推理だけで犯人を指摘する
という面白さを目指した
いわゆるクローズド・サークルものの作品です。
クローズド・サークルものの典型は
アガサ・クリスティーの
『そして誰もいなくなった』(1939)
ということになってますが、
それに先立つクイーンのこの作品の特徴は
山火事という要素を取り入れて
パニックものの面白さを盛り込んでいること。
今回の東北地方太平洋沖地震を
経験・見聞する中で
この作品を思い出したのは、
パニックものの要素があるからでした。
山火事で死ぬかもしれないという危機感の中で
犯人探しや謎解きをやることの意味
というものが示されている、稀有な作品です。
何とか脱出路を求めても逃げ道がないと知って
絶望して「人殺しか。ばからしい」(p.233)
とつぶやく父親に対してエラリーは
こんなふうに言います。
「なぜですか(略)そいつだけが、
たったひとつのまともな——そうです、
たったひとつの健康的なことですよ、
いずれにせよ。
男は——女も同じだが、
正常な仕事をしておれば、
気違い病院に行かないですみます(略)
そうですとも、お父さん。
こんなことでへこたれちゃいけない。
火事のために、僕たちは、
なにかなくしてしまった。
少しばかり、ふやけてしまっています。
僕は(略)ロマンチックな英国人の
《がんばり》精神なんか
信用していませんでした。
しかし、あれにはなにかがありますよ」(同)
また、とうとう炎に追いつめられて
地下室(穴蔵)に籠城することになった最後に
エラリーは謎解きを始めるのですが、
そのとき、次のように言っています。
「僕たちは、格別に不愉快きわまる
死の瀬戸ぎわに立っています。
僕は、このような危機に際し、
最後の希望も絶えはてたとき、
人間という動物はなにをすべきものか、
いかなる行動をとるべきかを知りません。
しかし、次のことは知っています。
少なくとも僕だけは、こうして、
猿ぐつわをはめられた、いけにえのように
じっとすわって、黙って死んでゆくことを
拒絶するということを」(p.350)
そして、死の恐怖から
みんなの眼をそらせるために、
謎解きを始めるのです。
エラリーは自他ともに認める文科系人間で、
危急に際しての判断力や
肉体的な瞬発力には、欠けるところがあり、
役に立つ人間とはいえない。
それでも人間として尊厳を忘れないでいたい、
死に際しても理性的でいたい
すなわち人間でありたいという思いと、
知性によって死の恐怖を追い払おうという目的で、
最後まで謎解きに、論理的な思考に
こだわるわけです。
物語の構造としては
エラリーのそうした姿勢が奇跡を生む
という読み方が可能な作りになっています。
あと、エラリーが山火事の現場を放浪するシーン
(pp.224-225)は
神話的な象徴も利いていて、出色です。
クイーンがこの作品で描いているような精神は、
作者的には、英国人の「《がんばり》精神」
なのかもしれませんが、
今でもアメリカ人に連綿と受け継がれている
共通感覚のひとつのような気がします。
アメリカというのは、まあ、時として
倫理の御旗の許に問題行動も起こす国ですが、
人間の理性が恐怖を超えさせ奇跡を起こすことや
人間の理性が最終的には真理に到達し得ることを
信ずるというオプティミズムには、
やっぱり脱帽させられずにはいません。
今回のような空前の災害時に
クイーンのこの作品を連想したのは、
自分がやっぱり文系的人間で
力もないからかもしれないなあ
と思ったりしたからかもしんない。
まあ、エラリーほどの頭脳を
持ち合わせていないのが残念ですが(苦笑)
読み直してみてびっくりしたのは、
『ギリシャ棺の謎』(1932)事件の時に
あれだけ苦労しているのに、
今回の事件でも簡単に結論を出そうとするのは
なぜなんだ~、と思いましたなあ。
もちろん、間違ってもいいんです。
無実なのに告発された人間からすれば
たまったものじゃないでしょうけれど、
大事なのは、間違った時は間違いを認め、
改めて、より正しいことを追究し
正しさを実践しようととする
知の営みを持続することなのだと思います。
なお、井上勇訳は
さすがに今となっては語感が古く、
付いていけない人もいるかもしれません。
それはそれで、味なんですけど(藁
持ってないので、書影はあげられませんが(^^ゞ
現在ではハヤカワ・ミステリ文庫から
『シャム双生児の秘密』という題でも
出ていますので、
訳文が気になりそうな人はそちらでどうぞ。
というか、連想した小説のひとつです。
今、手もとにあるのは
これ↓ですが

(1933/井上勇訳、創元推理文庫、1960.3.11)
初版には真鍋博イラストのカバーは
付いてないかと思います。
現物を見たことないけど(^^;ゞ
上のは1980年1月11日発行の42刷です。
奥付の年月日付で買ったのだとしたら、
読んだのは高校生の頃ですね。
最初に読んだのは鶴書房盛光社の
〈ミステリ・ベストセラーズ〉という
子ども向けのペイパーバックス版です。
中学生の頃で
図書館から借りたか
友人から借りたかで読んだんでした。
作者と同じ名前の青年探偵が登場する
いわゆる〈国名シリーズ〉の第7作目で、
自然災害に巻き込まれるサスペンスと
謎解きの面白さ、特に推理の面白さとを
兼ね備えた秀作です。
いちおう、以前にも一度目を通してますが、
今回、久々に再読してみました。
ドライブ帰りに山火事に遭遇したエラリーと
その父親リチャード(ニューヨーク市警の警視)は
火災を避けて山を登るうちに
矢の根荘という山中の屋敷にたどり着きます。
幸い泊めてもらえることになりましたが、
翌日、屋敷の主人が死体となって発見されます。
死体の手にはトランプのカードが1枚、
半分に破られて残っていました。
このカードがダイイング・メッセージ
(死に際の伝言)であると考えたクイーン警視は
ある人物を犯人だと告発するのですが……
麓から山火事の炎が屋敷に刻々と迫る
というシチュエーションを設定し、
警察の鑑識などの科学捜査抜きで
純粋に推理だけで犯人を指摘する
という面白さを目指した
いわゆるクローズド・サークルものの作品です。
クローズド・サークルものの典型は
アガサ・クリスティーの
『そして誰もいなくなった』(1939)
ということになってますが、
それに先立つクイーンのこの作品の特徴は
山火事という要素を取り入れて
パニックものの面白さを盛り込んでいること。
今回の東北地方太平洋沖地震を
経験・見聞する中で
この作品を思い出したのは、
パニックものの要素があるからでした。
山火事で死ぬかもしれないという危機感の中で
犯人探しや謎解きをやることの意味
というものが示されている、稀有な作品です。
何とか脱出路を求めても逃げ道がないと知って
絶望して「人殺しか。ばからしい」(p.233)
とつぶやく父親に対してエラリーは
こんなふうに言います。
「なぜですか(略)そいつだけが、
たったひとつのまともな——そうです、
たったひとつの健康的なことですよ、
いずれにせよ。
男は——女も同じだが、
正常な仕事をしておれば、
気違い病院に行かないですみます(略)
そうですとも、お父さん。
こんなことでへこたれちゃいけない。
火事のために、僕たちは、
なにかなくしてしまった。
少しばかり、ふやけてしまっています。
僕は(略)ロマンチックな英国人の
《がんばり》精神なんか
信用していませんでした。
しかし、あれにはなにかがありますよ」(同)
また、とうとう炎に追いつめられて
地下室(穴蔵)に籠城することになった最後に
エラリーは謎解きを始めるのですが、
そのとき、次のように言っています。
「僕たちは、格別に不愉快きわまる
死の瀬戸ぎわに立っています。
僕は、このような危機に際し、
最後の希望も絶えはてたとき、
人間という動物はなにをすべきものか、
いかなる行動をとるべきかを知りません。
しかし、次のことは知っています。
少なくとも僕だけは、こうして、
猿ぐつわをはめられた、いけにえのように
じっとすわって、黙って死んでゆくことを
拒絶するということを」(p.350)
そして、死の恐怖から
みんなの眼をそらせるために、
謎解きを始めるのです。
エラリーは自他ともに認める文科系人間で、
危急に際しての判断力や
肉体的な瞬発力には、欠けるところがあり、
役に立つ人間とはいえない。
それでも人間として尊厳を忘れないでいたい、
死に際しても理性的でいたい
すなわち人間でありたいという思いと、
知性によって死の恐怖を追い払おうという目的で、
最後まで謎解きに、論理的な思考に
こだわるわけです。
物語の構造としては
エラリーのそうした姿勢が奇跡を生む
という読み方が可能な作りになっています。
あと、エラリーが山火事の現場を放浪するシーン
(pp.224-225)は
神話的な象徴も利いていて、出色です。
クイーンがこの作品で描いているような精神は、
作者的には、英国人の「《がんばり》精神」
なのかもしれませんが、
今でもアメリカ人に連綿と受け継がれている
共通感覚のひとつのような気がします。
アメリカというのは、まあ、時として
倫理の御旗の許に問題行動も起こす国ですが、
人間の理性が恐怖を超えさせ奇跡を起こすことや
人間の理性が最終的には真理に到達し得ることを
信ずるというオプティミズムには、
やっぱり脱帽させられずにはいません。
今回のような空前の災害時に
クイーンのこの作品を連想したのは、
自分がやっぱり文系的人間で
力もないからかもしれないなあ
と思ったりしたからかもしんない。
まあ、エラリーほどの頭脳を
持ち合わせていないのが残念ですが(苦笑)
読み直してみてびっくりしたのは、
『ギリシャ棺の謎』(1932)事件の時に
あれだけ苦労しているのに、
今回の事件でも簡単に結論を出そうとするのは
なぜなんだ~、と思いましたなあ。
もちろん、間違ってもいいんです。
無実なのに告発された人間からすれば
たまったものじゃないでしょうけれど、
大事なのは、間違った時は間違いを認め、
改めて、より正しいことを追究し
正しさを実践しようととする
知の営みを持続することなのだと思います。
なお、井上勇訳は
さすがに今となっては語感が古く、
付いていけない人もいるかもしれません。
それはそれで、味なんですけど(藁
持ってないので、書影はあげられませんが(^^ゞ
現在ではハヤカワ・ミステリ文庫から
『シャム双生児の秘密』という題でも
出ていますので、
訳文が気になりそうな人はそちらでどうぞ。