ピアノ少女のエピソードの後編、
「カノンの夕べ Vol.2」で先行して観ました。
(いちおう録画予約しましたが)

今回、ちょっとテーマに突っ込んだ話になります。
観ていない方は、ネタバレだと感じるかもしれませんが、
ご容赦(ないし、ご注意)ください。

籠の鳥を映した後、
すべり台の手すりを檻に見立てたカットなど、
鈴村監督の映像はあからさま過ぎるというか
分かりやす過ぎるというか(苦笑)

今回の前後編は、
まさにモンスター・ペアレンツを体現するかのような
母親役の女優さんの演技に圧倒されました。

その母親と、イパダダに転生した男の母親とが
重ね合わされる(ように見える)のが、いささかあざとい。

あれだと、視聴者は
あのピアノ少女もイパダダになる
っていう印象を受けるんじゃないでしょうか。

それより何より、子どもをイパダダにしたり、
しかねなかったりするのが
両方とも母親というのが、何ともねえ。

父親は何をしてるわけ?

母親もある意味、状況や制度の犠牲者なはずですが、
今回のような描かれ方をされちゃあ、
一部の(?)ヒステリックな女が悪い、
みたいな印象を与えかねないと思います。

そこが、いちばん気になりました。

母親が子どもにいちばん近い、
という認識がベースになっているんでしょうが、
そういう認識自体が、
父親を甘やかしている(特権化している)わけでね。

それに今回のエピソード、
子どもは自主性を持ってて、
(自分の好きなものがあって、
 それを表現したい/解放したい欲望があって)
それが一方的に抑圧されている
みたいな描かれ方をしてましたけど、
子どもは子どもで、母親の期待に応えたい
(母親に好かれたい)という想いも、
一方であると思うわけで、
そこらへんの微妙さが、
カノンの父ばろくの台詞で示唆されるのみ
というのも、ひっかかりました。

示唆されてると自分的には思うんですが、
今回のような描かれ方だと、
子どもが一方的に抑圧されてるだけ
のようにも感じられます。

ばろくがカノンに投げ掛けた言葉は、
視聴者はもとより、演出側にも
投げ掛けられてるはずですが……

で、母親的存在が上に書いたような描かれ方で、
ドラマ中での父親的存在は
カノンの父親ばろくのように描かれるわけでしょう?
あれはある意味、かなり理想的な父親像ですよね。

父親ばかり、おいしいどこ取りしてる感じ(藁

現実にはダメな母親も多いのかもしれないけど、
ちょっと、世のお母さんたちの気持ちを
斟酌してしまったことでした。

まあ、あざとい解釈をするなら、
カノンが、あるいはイケチヨやオタキなんかが
母性的存在を象徴してるんで、
人間の母親はモンスターとして
描かれざるを得ない
というふうにもいえそうですが……

最後にタクシーからケータイを捨てたのは
誰なんでしょうか?
(ドラマの流れからは
 分かりきってるようなもんですが、
 その分かりきってるでしょ、な感じが、
 ちょっと引っかかるんですよね)