1398年

 朱元璋の孫・建文帝が即位した。祖父が長年にわたって築いた体制は盤石のように見えるが・・・・・。実はそもそも明という王朝には弱点があった。首都が南寄りの南京であるため、どうしても北方の勢力に対する守りが弱くなってしまう・・・・・。さりとて、経済繁栄の中心地である江南が近い、という利点を捨てるのは惜しい・・・・・。

 そこで朱元璋が考え付いた妙案というのが、自分の子供たちに「王」という称号と軍団を与え、北方のモンゴル人に対抗させる、というものであった。ある程度の兵力を与えても、自分の子供であるならば反抗することは無い。朱元璋が生きている間はそれでうまくいっていた。しかし、あらたに即位した建文帝は自分にとってオジサンにあたる「王」たちの力を恐れ、その兵力を削減しようとしたため、両者の関係に軋轢が生じた。なかでも北京を拠点とする燕王の朱棣は建文帝に対してすこぶる反抗的であった。

 建文帝が朱棣に対抗するためにとった方法とは、まず棣の同腹(母親が同じ)の弟を逮捕・投獄する、というものであった。また、なにかと理由をつけて棣の軍団から人員を引き抜き、兵力の削減を図った。

 

 

 

1399年

 朱棣逮捕の勅諭がくだるのは時間の問題かと思われたが・・・・・。身の危険を感じた棣は、わざと北京の街を裸で走り回ったりして、頭が狂ったふりをした。しかし、しばらくして建文帝とその側近たちに演技がバレてしまった。追い詰められた棣はしかたなく挙兵することになった。棣に付いてくることを選んだ兵士はわずか800人。挙兵を決意したその日、棣が暮らす宮殿を激しい嵐が襲った・・・・・。

 あまりにも風が強かったため、宮殿の青色の瓦がつぎつぎと落ちていった。誰もが凶兆を感じとるなか、棣の参謀役を務めていた仏僧(道がおごそかに次のように述べた。

「これは吉兆(良い兆し)でござりまする。古来より龍が空に飛び立つ時、嵐がおこると言われております。また、瓦が落ちたということは、黄色の瓦に変えよ、という天からのお告げでございましょう。」

 黄色は最も高貴な色とされ、皇帝を象徴する色であった。つまり「おまえが皇帝になれ!」と天が言っているのではないか???・・・・・なんというポジティブシンキング!この言葉に勇気を得て、朱棣は挙兵する決意を固めた。こうして「靖難の役」がはじまった。

 

 

 

 

1401年

 朱棣率いる軍勢は何度も建文帝の軍勢に勝利を収めた。しかし、もともとの勢力範囲が狭すぎるため、せっかく手に入れた拠点もしばらくすると奪われてしまう。そんな折、建文帝の宮廷にいる宦官を通じて、次のような情報を得た。「意外と南京の守りは薄い。」・・・・実は宦官たちは朱元璋の時代から雑に扱われていて、以前から不満があった。棣率いる軍勢は途中の街や拠点には目もくれず、一気に南下して南京を急襲した。作戦は成功し、南京に入城することに成功した。(ここで棣が宦官たちの力を借りたことは、あとあとになって明という王朝の運命を決めることになる。)

 棣は建文帝の宮殿が見える地点までやってきた。見間違えだろうか・・・・・?宮殿からおびただしい量の煙が上がっているように見えるが・・・・・。と思う間もなく、激しい炎が宮殿から上がり、建物を燃やしつくしてしまった。鎮火後に調べてみたところ、建文帝の皇后の真っ黒焦げの死体は見つかったが、建文帝本人の死体は見当たらない。一体どこに行ったのだろうか???どこかに逃げた???歴史家たちは建文帝の行方についてさまざまに議論しあっているのだが、結論はでていない。しかし、近年の研究では南京を脱出して生き延びて、誰にも見つからないところで一生を終えた、というのが有力な説だそうである。(ほんまかいな;)

 

 

 

1402年

  朱は即位して中国皇帝となった。これが永楽帝である。しかし、心は晴れない。

「建文帝のやつはどこかで生きていて、俺の命を狙っているかもしれない・・・・・。」

「建文帝のもとで働いていたやつらは信用ならないな・・・・・。」

 永楽帝に忠誠を誓った官僚たちは助命されたが・・・・・あくまで建文帝に対する忠誠心を貫き通し、死を選ぶ官僚たちもいた。そして、永楽帝は「十族皆殺し」を実行した。「九族皆殺し」という言葉はよく聞くが、これは親戚一同皆殺しを意味する言葉である。「十族皆殺し」とはなんであろうか???今回は親戚だけでなく、知り合いや友人たちも皆殺しの対象になった。だから「九族」に一を足して、「十族」と呼ばれることになった。例えば、ある儒学者などは死刑になる前に、目の前で弟子たちが死刑にされていく様を何度も見させられた・・・・・。なんとも陰惨である。(こんな話を授業ですると、まるで教室がお葬式会場のようになってしまう;)

 永楽帝が粛清した人間の数はざっと1万人である。父親の朱元璋に比べれば少ないが・・・・・。年端のいかない子供たちも容赦されなかったそうである。

 

 

 

 

1405年

 さぁ永楽帝といえば、南海遠征である。ムスリムの宦官、という異色の経歴をもつ鄭和に命じて、大艦隊を編成して南海諸国に向かわせた。目的は朝貢を促すこと。できるだけ多くの国に朝貢させることで、皇帝としての「正統性(レジティマシー)」を高めることが狙いであった。宝船とよばれる大船に、中国の絹織物やら陶磁器やら豪華で魅力的な物品を満載して南海諸国に向かったが、それはさながら「動くデパート」のようであった。

 さっそく明に朝貢したのは東南アジア最初のイスラーム国家であるマラッカ王国。マラッカの街には鄭和の艦隊が到着したことを記念して、お寺が建てられた。さらにインドのカリカットにも到達。現地の人間にとってはよっぽど衝撃的な出来事だったのか、およそ100年後に西からやってきたポルトガル人のヴァスコ=ダ=ガマは当地に中国から艦隊がやって来た、という話を聞かされることになる。さらにイスラーム教の聖地メッカにも到達。さらにアフリカ大陸東岸の港町にも到達した。

 鄭和の艦隊は到達した地で手に入れた様々なものを中国に持ち帰ったが、その中にひときわ永楽帝の目を引くものがあった。ここでタイトルの永楽帝のセリフである。永楽帝が見たものは、そう・・・・・アフリカから連れてこられた首の長い網目模様の草食動物であった。今だったら動物園に行けば簡単に見ることができるが、この時代の中国人たちは誰もこの動物を見たことはなかった。永楽帝は目を輝かせながらこう言った。

「これは古くから言い伝えられる神獣の麒麟(きりん)に違いない!」

 

 

 

 

1406年

 第1回南海遠征が行われた翌年、永楽帝は北ベトナムを占領した。また、北方の脅威を取り除くため、モンゴル高原に4回にわたって親征をおこなった。しかし、モンゴルではなかなか敵が見つからず、実際に戦闘をしたのはたった2回だけだったようである。

 1424年、4回目のモンゴル高原の親征の最中、永楽帝は力尽きてこの世を去った。22年にわたる治世であった。

 

 

 

 

〔補足〕

今回のコラムを書くにあたってはこの本を参考にした。

ものすごい名著・・・・・。