1086年

 トルコ人はもともと中央アジアで暮らす遊牧民であった。そんなトルコ人がなぜアナトリア(小アジア)に国を建てたのか?答えは11世紀、トルコ人のたてたセルジューク朝が西へ領土を拡大させたことにある。セルジューク朝がビザンツ帝国を圧迫し、アナトリアに領土を得るという状況のなかで、トルコ人たちのアナトリアへの移住が進んだ。

 

 

1299年

 この年、アナトリアにオスマン帝国の原型となる国が成立した。成立当初はかなり小さい。紫色で示されてるが分かるだろうか?

 

 

1375年

 オスマン帝国は東へ進まず、西へ進んだのが良かったようである。ダーダネルス海峡をこえ、ヨーロッパ側にわたり、アドリアノープルを首都にした。オスマン帝国を小国として侮っていたヨーロッパ諸国も、この頃からキリスト教諸国の安全を脅かす危険なイスラームの国として認識するようになった。

 

 

1396年

 ついにローマ教皇がオスマン帝国に対する十字軍を提唱。ハンガリー王をリーダーとするヨーロッパ諸国連合軍が組織された。バヤジット1世率いるオスマン帝国軍がこれと戦い、ニコポリスの戦いで撃破した。しかし、東から怪しい影が・・・・・。

 

 

1402年

 東から突然現れたのは、遊牧民の騎兵を率いるティムールの軍勢。「稲妻」と称されるほどの戦略家であったバヤジット1世も、ティムールにはかなわず捕虜になってしまった。これによりオスマン帝国はスルタン不在になり、一時滅亡の危機を迎える・・・・・。

 

 

1452年

 オスマン帝国を立て直したのは当時20歳であったメフメト2世であった。彼は難攻不落の要塞都市コンスタンティノープルを陥落させ、1000年以上続いたビザンツ帝国にとどめを刺した(1453年)。攻撃の直前、大臣たちに反対されたが、

 

「私の望みはただ一つ。あの街をわたしにください。」

 

と述べ、コンスタンティノープル攻略を断行した。コンスタンティノープルは陥落直後、メフメト2世により「イスタンブル」と改称され、オスマン帝国の新たな首都になった。

 現在のトルコ共和国の首都はアンカラであり、イスタンブルではない。しかし、最も人口の多い都市であり、歴史的建造物の多い観光地としても繁栄している(コロナが収まったら、またいつか行ってみたいものだ)。