1735年

 康熙帝、雍正帝に続いて乾隆帝が皇帝になった直後の状況。

 祖父の康熙帝の時代からの宿敵・モンゴル系の民族ジュンガルが東トルキスタン(中央アジア東部)にいる。

 

 

1756年

 

 見事、ジュンガルを撃破して東トルキスタンを征服。

 東トルキスタンにはイスラーム化したトルコ系の民族ウイグルがいたが、清の支配下に入った。

 乾隆帝は東トルキスタン一帯を新疆(新しい土地)と名付け、藩部として間接統治をはじめた。

 

 

1795年

 乾隆帝、退位直前の状況。

 1756年と比べて変化がないが、これが清朝の最大領土になった。

 乾隆帝は在位60年目にして、「祖父の康熙帝の在位61年をこえるのは失礼だ。」という理由で自ら退位した。

 しかし、退位後は認知症になり、宮殿で小便をまき散らしたり、手当たり次第に宮女たちに手をだしたり、奇行に走った。

 やはり人間、死ぬまで現役で働き続けたほうが良いようだ。

 

 

〔補足〕

 これは資料集にも載っている乾隆帝の絵だ。やたらとリアルだが、描いたのは中国人ではない。描いたのはイタリア出身のイエズス会宣教師カスティリオーネ。イエズス会に入る前から画家として修練を積んでいたため、このような見事な絵を描くことができた。

 宣教師として中国にやってきたカスティリオーネであったが、雍正帝の時にキリスト教布教が禁止になってしまった。宣教師のほとんどが中国を去るなか、カスティリオーネは中国を去らなかった。それはなぜか?

 

乾隆帝「そちは宣教師なのに、生まれ故郷には帰らんのか?中国ではキリスト教は広められんぞ。」

カスティリオーネ「これからはあなた様の家来として、生涯仕えとうございます。よろしいでしょうか?」

 

 2人の間には友情に近いような感情があったようである。乾隆帝はカスティリオーネにとって、生まれ故郷を捨ててでも仕えたくなるようなそんな魅力的な人柄だったのだろうか???しかし、そんな乾隆帝も晩年は認知症になり、恥をさらしながらこの世を去った。中国の老人たちは「乾隆様だって晩年は・・・・・。」とささやきあったそうである。