百舌鳥古墳群12(大阪府堺市)2024年1月19日
古事記や日本書紀に記されている陵墓の築造された順番と実際の
古墳の造られた順番が一致しないという矛盾もあって、本当に仁徳天皇の陵墓なのか、までを含めて被葬者についての議論でした。
そうした事情から大仙古墳が世界遺産に登録されたときも、学会
からは仁徳天皇陵として登録することに疑問の声が上がりました。
しかし、宮内庁は天皇の陵墓であるため、発掘調査には消極的で
あり、一部の立ち入り調査が認められてきた程度でした。
ようやく2018年になって、宮内庁と堺市が共同で築造年数などを調べるための発掘調査が行われることになりました。
とはいうものの、宮内庁の見解では今回の調査は古墳の保全工事を進めるための、お濠堤の遺跡調査であるとするスタンスを崩そうとはしていません。
案の定、この調査も墳墓は対象外で、護岸整備の工事を行うための基礎資料集めと説明され、墳丘を囲む濠に面した堤の一部のみというまるっきし限定的な発掘にとどめられました。
それでも発掘調査のお手柄で、堤からは一列に並んだ円筒埴輪や石敷きが発見されました。大仙古墳で円筒埴輪列が確認されたのは初めてのことでした。天皇陵では快挙だ。
ごくごく一部分の発掘調査といえども、手つかずのサンクチュアリに学術の手が入るというのは画期的なイベントですな。
日本書紀の記述では仁徳天皇は4世紀後半に死去したこととされて
いますが、この埴輪は5世紀前半~中頃の特徴をもっており、数十年のずれがあるという指摘もあります。
考古学の専門家も「この程度の発掘は当たり前のこと。まだまだ
始まったばかり。」と自信を深めている。
この埴輪が並んでいたのは堤の外側だけで、内側では見つかっていませんが、通常、大型の古墳では埴輪は堤の両側に並べられるのが一般的で、内側は濠の水による浸食で崩落してしまった。のではないかと考えられます。
大仙古墳からは同時代の円筒埴輪が過去にも出土しており、埴輪
はお濠に沿って約2.6㎞を一周するように並べられていた可能性が
あり、だとすると全部で7000体以上あったと推測されています。
大仙陵古墳の学術調査は序の口が始まったに過ぎない。今後、幕
入り、三役揃い踏みと取り組みを進めて行けば、秘密の鎧戸がこじ開けられるやもしれません。
いずれにせよ、この発掘調査による発見は、大仙古墳の築造された時期や被葬者を特定する上で手掛かりのひとつとなりそうです。x