明日は3月11日、早いもので東日本大震災から4周年を迎える。様々なメディアで大震災特集を組んでいる。
大震災についてはいずれこのブログでも触れるが、今回はその前日に当たる今日3月10日のことを考えてみたい。
3・10も、東京大空襲の日として毎年メディアで取り上げられることが多い。東京への空襲そのものは昭和19年11月から106回を数え、特に昭和20年3月10日の空襲が大規模で、10万人以上が死んだとされることから3・11を「東京大空襲の日」と称することが一般的である。
東京を襲ったB29はサイパンから飛び立って来た。サイパンからは日本全体が爆撃可能圏になったと言う。ということは、我が国はサイパン陥落の時点で米国によって喉元に匕首を突き付けられた状態になったと言える。
そもそもサイパンは我が国の絶対国防圏と位置付けられていたのだから、サイパンが陥落した時点で降伏のシナリオは描けた筈だ。
ここでやめておけば、その後の広島・
長崎の原爆投下は回避出来たかも知れない。またソ連の樺太侵攻もなかったかも知れない。
無論劣勢にある方が停戦のイニシアティブを取ることは至難の技である。ソ連を牽制するためにも原爆投下したかったトルーマンが日本からの停戦交渉に応じた可能性は低かっただろう。
しかし3・11により焼かれた下町エリアは、関東大震災の罹災エリアとピッタリ重なるという。つまり関東大震災の火の回り方を徹底的に研究して、同じ燃え広がりになるか実験したと言う、米国の「人道に対する犯罪」を少しでも回避することは出来たのではないか?
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