今日、ロサンゼルスの障害者向けトランスポーテーションサービス「ACCESS」を初めて利用した。
パーキンソン病のため申請し、面接と簡単な診断を経て、歩行困難やバス停までの距離などの理由で利用が認められた。
片道3ドル50セントで約40キロの移動ができる。通常ならUberで100ドル近くかかる距離だ。
アパートの前には時間通りに車が到着し、僕を含めて3人の利用者を順にピックアップしていく仕組みだった。
移動はまずロサンゼルスのダウンタウンを経由した。その途中で都市の風景は一変する。
郊外の整った街並みに比べ、ダウンタウンには落書き、ゴミ、テント、路上生活者、シェルターで朝食をとる人々が混在していた。空気も重く感じられ、同じ都市とは思えないほどの落差があった。
もしUberでフリーウェイを直行していれば、この光景は見えない。都市は「点から点」へと圧縮されるからだ。
しかしACCESSのような乗り合い移動では、都市は“線”として現れ、その途中の現実まで見えてしまう。
このとき、都市には2つの層があると感じた。
ひとつは、効率を最大化する「効率世界」。Uberや高速道路のように、最短距離で目的地へ到達するために設計された世界で、余分な現実は視界から消えていく。
もうひとつは、非効率を引き受けることで成立する「包摂世界」。ACCESSのように、アプリではなく電話予約、直行ではなく巡回という形で、移動からこぼれ落ちる人を含み込むための世界だ。
効率世界は速さを最大化し、包摂世界は漏れを最小化する。
同じ都市にありながら、この2つはまったく異なる論理で動いている。
さらに意外だったのは、混沌としたダウンタウンの中を何台もの無人タクシーが静かに走っていたことだ。人間の生活の最も不安定な部分と、テクノロジーによる最適化が同じ空間に重なっていた。
そこには、効率を極限まで追求する無人移動と、時間と手間をかけて人を運ぶACCESSという、2つの極端な仕組みが同時に存在している。
そしてその間に、制度からこぼれ落ちた人々の現実がある。
都市とは1枚の地図ではなく、異なる時間軸のシステムが重なり合う層なのかもしれない。
目的地に着いた後、浮いた移動コストで朝食にクロワッサンとジュース、そして昼食にハンバーガーとコーラを買った。
それは単なる節約ではなく、2つの世界を横断した実感のようにも感じられた。