オートパイロット(自動操縦)の無人タクシーをよく見かけるようになった。
考えてみると、人間の行動も、気づかないうちにオートパイロット化している気がする。
歩く、食べる、スマホを見る。これらはほとんど意識せずにできる。むしろ意識するとぎこちなくなるくらいだ。
思考も同じだと思う。
「自分で考えているつもり」でも、実はかなりの部分が習慣でできている。心配の仕方、物事の解釈の仕方、反応のパターン。気づけば、同じルートをぐるぐる回っている。
これは効率という意味ではよくできている仕組みだ。人間は、いちいち全部を意識していたら生きていけない。
ただ、厄介な点がある。
幸福感は、このオートパイロットの中からはなかなか出てこない。
YouTubeを見ながらケーキを食べていたことがある。気づいたら食べ終わっていた。味はあったはずなのに、「食べた」という記憶は薄い。
それ以来、ケーキを食べる時は、意識を集中することにしている。「今これを食べている」と意識した瞬間、存在感が変わる。
ここから見えてくることがある。
幸福とは「気づき」が差し込まれることで、立ち上がる現象なのではないか。
完全なオートパイロットでもなく、完全なマニュアル操作でもない。そのあいだの、揺らぎの中にしか幸福は現れない。
実は本の世界にも似た構造がある。
最近、図書館に行ったときに少し違和感を覚えた。
数万冊の蔵書があるのに、ベンジャミン・フランクリンの自伝が見当たらなかった。代わりに、フランクリンの評伝や解説書は多く並んでいる。
どこか引っかかるものがあった。
フランクリンはアメリカ建国の父のひとりであり、自伝は、いわば「生の思考の記録」だ。それに対して評伝は、誰かがその人生を解釈し、整理し、意味づけたものだ。
ここで起きていることは、少し象徴的に見える。
僕らはいま、「本人の声」よりも「本人について語られた説明」のほうにアクセスしやすい世界に生きている。
直接の経験よりも、解釈された情報のほうが手に入りやすい。
これは図書館だけの話ではない。
行動はオートパイロット化し、思考もオートパイロット化する。そして知識までもが、誰かの解釈を通して供給される。
効率は上がる。理解も早くなる。だが、何かが静かに薄くなる。
それは「自分が触れている」という感覚だ。
結局、同じ問いに戻ってくる。
人間はどこで“意識”を取り戻すのか。
すべてをマニュアル操作に戻す必要はない。そんなことは不可能だし、疲れてしまう。
おそらく大事なのは、オートパイロットの上に、どれくらい「気づき」を差し込めるかだ。
ケーキを食べている自分に気づくこと。
本を読んでいるときに、「これは誰の声なのか」と一瞬立ち止まること。
その小さな手作業が、人生の質を決めるのかもしれない。
Photo courtesy of RecipeTin eats