「コスパ」「タイパ」という言葉をよく耳にする。


時間をいかに効率よく使うか、という発想だ。僕自身も、スマホを持ってトイレに入る、食事をしながらYouTubeを見る、といったマルチタスクというか、ながら行動が当たり前になっている。


しかし、本当にそれでいいのだろうか。


すべての「ながら」が悪いとは思わない。ただし、その質には違いがあるのではないか。


ヒントは、お酒と食事の関係にある気がする。


ウイスキーやブランデーのように、それ自体が主役として完結するお酒がある。一方でワインやビールのように、料理と一緒になることで魅力が増すものもある。


日本酒にも、大吟醸のようにゴージャスな香味で主役を張るタイプと、純米酒のように食事を引き立てる脇役タイプがある。


ここには一つの原則があるように思う。


同時に主役は成立しない。

良い組み合わせとは、主役と脇役の関係がはっきりしていることだ。どちらかがもう一方を引き立てている。


この視点で日常を見直すと、「良いながら」と「悪いながら」が見えてくる。


例えば、散歩をしながら考えることや、映画を観ながらポップコーンを食べること、掃除をしながら音楽を聴くことは自然だ。そこでは、散歩・映画・掃除が主役で、もう一方は環境として溶け込んでいる。


一方で、食事をしながらYouTubeを見続けることや、トイレでスマホを延々と見るのはどうだろうか。


どちらも「情報消費」という意味で主張が強く、主役が二つ並んでいる。結果として、どちらの体験も薄まる可能性がある。


さらに極端な例として、ゴルフをしながら弁護士試験のリスニング教材を聞いていたという話もある。もし両方が高度な集中を必要とするものであれば、それは相乗効果ではなく、注意の分散になっているかもしれない。


では、そもそも人はなぜ「ながら」をするのだろうか。


コスパ、タイパのためか。それとも単に退屈を避けるためか。


多くの場合、それは「時間の統合」ではなく「注意の分散」になっているのかもしれない。


理想的な「ながら」とは、時間を削ることではなく、体験を調和させることなのではないか。


お酒と食事のペアリングのように、互いを引き立てる関係であれば、「ながら」はむしろ豊かになる。しかし、どちらも主役になろうとすれば、体験は分裂する。


タイパは「時間」の短縮を目指すが、ペアリングは「意味」を深める。


そう考えると、「ながら」は、減らすべきものではなく、選び直すべきものなのかもしれない。


Photo courtesy of Small Business Association