(再録・2020.5.7既出)
午後から恒例の50分ほどのウォーキングに出かける。途中の、住宅が建っていない区画(完成時1500軒のところ、現在1250軒が建ち入居している)や公園などで、昆虫採集・虫取り網を持った子供たちが何かを探しているのを見かける。わが家の庭にも揚羽蝶などが来ているようで、目指しているのは蝶の類だろうか。少しだけ風があり、昨日などと比べ長袖のシャツを着てちょうどくらいの気候であるが、ウォーキングには最適といえる。池に面した公園で立木などをスマホで撮影する。大阪湾越しに神戸や六甲山がよく見えている。わが家を建てたときに、2階から眺めることができた大阪湾や六甲の夜景などは、一年後には目前に小学校の教室棟が建って見えなくなってしまった。しかしながら、代わりに眺めることができるようになった教室での授業風景(音楽の授業や、休み時間の子供たちの喧騒も含め)も悪くない。ただ、突然の長期休暇で当然のことに教室の明かりも消えたままである。早くもとに戻ってほしいものである。
本の話である。久しぶりに読んでいる(多くは再読)ブローティガンの小説とエッセイであるが、ここまで読み進めてきた「アメリカの鱒釣り」(新潮文庫・550円+税)、「芝生の復讐」(新潮文庫・520円+税)、「西瓜糖の日々」(河出文庫・780円+税)の中では、「西瓜糖の日々」がわたしにはいちばん馴染みいいところがある。これは他と比べて、一貫したストーリーのようなものがあるためかも知れない。今日もアマゾンから荷物が届いて開梱すると、リチャード・ブローティガン「ブローティガン 東京日記」(平凡社・1300円+税)が現れる。これに本箱にある、こちらは未読の「バビロンを夢見て」(新潮社・1553円+税)とともに、続けて読もうと考えている。
「ブローティガン 東京日記」 「日本ははるか遠くにある。しかし、ぼくはいつの日か日本に行かなくてはならないだろうと悟ったのだ。日本は、ぼくの魂をまだ行ったことのない場所へとひきつける磁石のようなものだった」(「はじめに」より)/1976年5~6月、ブローティガンは一カ月半日本に滞在し、日記のように日々の気分や思い、観察を詩に著した。深いペーソスあふれる最後の詩集、待望の再刊。
「バビロンを夢見て」 おれは私立探偵、ハードボイルドのヒーローだ。だが、カラッケツ、拳銃につめる弾丸もない。もっと辛いのは、バビロンの白昼夢がおれにつきまとうことだ……。意識の底に流れる夢を追う。
リチャード・ブローティガンは、1935年アメリカ太平洋岸の北西部にあるタコマに生れた。一家は貧しく、彼はいろいろな職業を転々とした。/彼の作品に一貫して流れているのは、物質文明の拒否と、その文明社会からの逃避であり、登場する人物はすべてファンタジーの世界に生きていると言われる。第二作『アメリカの鱒釣り』は若い世代の人生読本として愛読された。『バビロンを夢見て』は、彼が五つの異なるフィクションの形式に従って五年間に五つの小説を書くと計画して以来の四つ目の作品で、1977年に発表された。
写真は、東山丘陵で撮影。