(再録)村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」(新潮社・1300円+税) | 野球少年のひとりごと

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(再録)午前中に、村上春樹「羊をめぐる冒険 ㊦」(講談社文庫・320円)を読み終え、午後からで同じく村上春樹の、「神の子どもたちはみな踊る」(新潮社・1300円+税)を読み終える。「羊をめぐる冒険」は、1988年に読んでいて26年ぶりなので仕方がないとしても、「神の子どもたちはみな踊る」は2005年なのでこちらは9年ぶりの再読なのに、ディテールも含めまったく覚えていないのはどうしたことか。内田樹が好きだという、本書に収録の「かえるくん、東京を救う」も同様である。それにしても、6篇の短編のそれぞれに工夫を凝らしている村上春樹は長篇型の作家だと思うが、短編もうまい。次は、アメリカで出版された英語版と同じ作品構成でつくられた「象の消滅」(新潮社・1300円+税)に今晩から掛かるつもりであるが、ここには短編としては最も好きな「中国行きのスロウ・ボート」や、大変印象的だった「ファミリー・アフェア」も含まれていて、さて再読してどのような感興をおぼえるか楽しみである。まったく覚えていない可能性も充分にあるが、読了後にあらためて。

「神の子どもたちはみな踊る」(新潮社・1300円+税) 小さな焚火の炎のように、深い闇の中に光を放つ村上春樹の言葉 この小説を読み終えたとき、あなた自身の何かが変わる…。
 しんと静まりかえった心の中のいちばん深い場所で、たしかに、それは起こった。 生きること、死ぬこと、そして眠ること-1995年2月、あの地震のあとで、まったく関係のない6人の身の上にどんなことが起こったか?連載『地震のあとで』5篇に書き下ろし1篇を加えた著者初の連作小説


さらに、内田樹「もう一度村上春樹にご用心」から、印象に残ったところを引用してみる。

最初の問いに戻る。どうして村上春樹はこれほど世界的な支持を獲得しえたのか?/それは彼の小説に「激しく欠けていた」ものが単に80~90年代の日本のローカルの場に固有の欠如だったのではなく、はるかに広汎な私たちの生きている世界全体に欠けているものだったからである。私はそう考えている。同じ仕方で、「どうして『第一の問い』を日本の批評家たちは口にしたがらないのか?」という第二の問いにも答えることができると思う。/私たちが世界のすべての人々と「共有」しているものは、「共有されているもの」ではなく、実は「共に欠いているもの」である。その「逆説」に批評家たちは気づかなかった。/村上春樹は「私が知り、経験できるものなら、他者もまた知り、経験することができる」ことを証明したせいで世界性を獲得したのではない。「私が知らず、経験できないものは、他者もまた知り、経験することができない」ということを、ほとんどそれだけを語ったことによって世界性を獲得したのである。

私たちが「共に欠いているもの」とは何か?/それは「存在しないもの」であるにもかかわらず私たち生者のふるまいや判断のひとつひとつに深く強くかかわってくるもの、端的に言えば「死者たちの切迫」という欠性的なリアリティである。/生者が生者にかかわる仕方は世界中で違う。けれども死者が「存在するとは別の仕方で」生者にかかわる仕方は世界のどこでも同じである。「存在しないもの」は「存在の語法」によって、すなわちそれぞれの「コンテクスト」や「国語」によっては決して冒されることがないからだ。/村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けて来た。それ以外の主題を選んだことがないという過剰なまでの節度(というものがあるのだ)が村上文学の純度を高め、それが彼の文学の世界性を担保している。(以上、124~126頁、「激しく欠けているもの」について)



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