(再録)村上春樹「1973年のピンボール」(講談社文庫・240円) | 野球少年のひとりごと

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(再録)昨日の、「風の歌を聴け」(講談社文庫・220円)に続いて「1973年のピンボール」(講談社文庫・240円)を読み終える。村上春樹の青春三部作と目される第二作目であり、「風の歌を聴け」同様に、青春の瑞々しさを描いたもので一応同時代を生きた身としたら、少しだけ懐旧の想いにとらわれるところがある。ただ、わたしなどの青春時代と比べると随分洗練されたものではあるが。三部作も二作まで読んでしまうと、もう1冊の「羊をめぐる冒険」も読まないわけにゆかなくなる。都合のいいことに、殆どといってよいかそれは何の手掛かりもないくらいに忘れてしまっていることで、そういう意味で初めて読むように楽しく読めている。これらの小説につられるように古いCD取り出してきて聴いている。今日は、ザ・バーズでとりあえず2枚のベスト盤である「ザ・バーズ・グレーテスト・ヒット」と「ザ・ベスト・オブ・ザ・バーズ」を。さらに、ザ・バンド、イーグルスと聴き進めるつもりである。これらの音楽も、よく使った例えでいうと「涙なしに聴けない」もの(特に、ザ・バーズの「マイ・バック・ページ」などは)たちである。お蔭で、久し振りに青春を満喫しています。(2冊の文庫の値段は当時のもので、当然のことに消費税もなかった時代です)

「風の歌を聴け」(講談社文庫・220円) 1970年の夏、海辺の街に帰省した<僕>は、友人の<鼠>とビールを飲み、介抱した女の子と親しくなって、退屈な時を送る。二人それぞれの愛の屈託をさりげなく受けとめてやるうちに、<僕>の夏はものうく、ほろ苦く過ぎさっていく。青春の一片を乾いた軽快なタッチで捉えた出色のデビュー作。群像新人賞受賞。

「1973年のピンボール」(講談社文庫・240円) ひとつの季節の終わりと再生の予感。青春の温もりと乾きを爽やかにつづる話題の長篇 さようなら、3フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との<僕>の日々。女の温もりに沈む<鼠>の乾き。やがて来る一つの季節の終わり-『風の歌を聴け』で爽やかに80年代の文学を拓いた旗手が、ほろ苦い青春を描く三部作のうち、大いなる予感の満ちた待望の第二弾。


一昨日昨日に続き、内田樹「もう一度村上春樹にご用心」から、印象に残ったところを引用してみる。

村上春樹が世界的なポピュラリティを獲得したのは、その作品に「世界性」があるからである。(略)では、その「世界性とは何か」ということになると、これについては私はまだ納得のゆく説明を聞いたことがない。そこで私の説を語る。/村上文学には「父」が登場しない。だから、村上文学は世界的になった。(略)「存在するものは存在することによってすでに特殊であり、存在しないものだけが普遍的たりうる」/分析的な意味での「父」は世界中のあらゆる社会集団に存在する。/「父」とは「聖なる天蓋」のことである。/その社会の秩序の保証人であり、その社会の成員たち個々の自由を制限する「自己実現の妨害者」であり、世界の構造と人々の宿命を熟知しており、世界を享受している存在。それが「父」である。(92~93頁、「父」の不在)

「父」はさまざまな様態を取る。「神」と呼ばれることもあるし、「預言者」と呼ばれることもあるし、「王」と呼ばれることもあるし、「資本主義経済体制」とか「父権制」とか「革命的前衛党」と呼ばれることもある。世界のすべての社会集団はそれぞれ固有の「父」を有している。「父」はそれらの集団内部にいるに人間にとっては「大気圧」のようなもの、「その家に固有の臭気」のようなものである。だから、それは成員には主題的には感知されない。けれども、「違う家」の人間にははっきり有徴的な臭気として感知される。/「父」は世界のどこにもおり、どこでも同じ機能をはたしているが、それぞれの場所ごとに「違う形」を取り「違う臭気」を発している。/ドメスティックな文学の本道は「父」との確執を描くことである。/キリスト教圏の文学では「神」との、第三世界文学では「宗主国の文明」との、マルクス主義文学では「ブルジョア・イデオロギー」との、フェミニズム文学では「父権的セクシズム」との、それぞれ確執が優先的な文学的主題となる。いずれも「父との確執」という普遍的な主題を扱うが、そこで「父」に擬されているものはローカルな民族誌的表象にすぎない。(93頁、「父」の不在)

作家ひとりひとりは自分が確執している当の「父」こそが万人にとっての「父」であると信じているが、残念ながらそれは真実ではない。彼らにとっての「父」は彼のローカルな世界だけでの「父」であり、別のローカルな世界では「父」としては記号的に認知されていない。だから、彼が「ローカルな父」との葛藤をどれほど技巧を凝らして記述しても、それだけでは文学的世界性は獲得できない。/私たちは「自分が知っているもの」の客観性を過大評価する。「私が知っていることは他者も知っているはずだ」というのは私たちが陥りやすい推論上のピットフォールである。/話は逆なのだ。「私たちが知らないことは他者も知らない」そういうことの方が多いのである。/私たちが興味をもって見つめるものは社会集団が変わるごとに変わるが、私たちが「それから必死に目をそらそうとしていること」は社会集団が変わっても変わらない。人間の存在論的な本質にかかわることからだけ人間は組織的に目をそらすからだ。/「生きることは体に悪い」とか、「欲しいものは与えることによってしか手に入らない」とか「私と世界が対立するときは、世界の方に理がある」とか「私たちが自己実現できないのは『何か強大で邪悪なもの』が妨害しているからではなく、単に私たちが無力で無能だからである」とかいうことを私たちは知りたくない。だから、必死でそこから目をそらそうとする。(94頁、「父」の不在)

だから、人間が「何か」をうまく表象できない場合、その不能のあり方にはしばしば普遍性がある。人間たちは実に多くの場合、「知っていること」「できること」においてではなく、「知らないこと」「できないこと」において深く結ばれているのである。/人間は「父抜き」では世界について包括的な記述を行うことができない。けれども、人間は決して現実の世界で「父」に出会うことができない。「父」は私たちの無能のありようを規定している原理のことなのだから、そんなものに出会えるはずがないのだ。/私たちが現実に出会えるのは「無能な神」「傷ついた預言者」「首を斬られた王」「機能しない『神の見えざる手』」「弱い父」「抑圧的な革命党派」といった「父のパロディ」だけである。/それでも、私たちはそれにすがりつく。/というのは、「父」抜きでは、私がいま世界の中のどのような場所にいて、何の機能を果たし、どこに向かっているかを鳥瞰的、一望鳥瞰的な視座から「マップ」することが出来ないからである。地図がなければ、私たちは進むことも退くことも座り込むことも何も決定できない。(95頁「父」の不在)

でも、地図がなくても何とかなるんじゃないか…という考え方をする人がまれにいる。/村上春樹は(フランツ・カフカと同じく)、この地図もなく、自分の位置を知る手がかりの何もない場所に放置された「私」が、それでも当面の目的地を決定して歩き始め、偶然に拾い上げた道具を苦労して使い回しながら、出会った人々から自分の現在位置と役割について最大限の情報と最大限の支援を引き出すプロセスを描く。その歩みは物語の最後までたどりついても、足跡を残した狭いエリアについての「手描き地図」のようなものを作り上げるだけで終わる。/それはささやかだけど、たいせつな仕事だと私は思う。/「父」抜きのマップを作ろうと思ったら、自分が歩いた範囲について「これだけはたしかです」という限定的な「手描き地図」をみんなが描いて、それを集めた手作りの「地図帳」を作るしか手だてがない。そして、私と同じように思っている人がきっと世界中にたくさん(それほどたくさんでもないかも知れないが)いると思う。/「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正しいふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそれでも『何かよきもの』を達成できるのか?」/これが村上文学に伏流する「問い」である。/「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。「正否」の絶対的基準がない世界で、「正義」を行うこと。それが絶望的に困難な仕事であることは誰にもわかる。けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面しているという感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されていると信じたい。(95~96頁、「父」の不在)


「洋画家 仲村一男」のホームページ
  http://www.nakamura-kazuo.jp/