間違えるのも自由だ!
光市の母子殺害事件に関して
青学の准教授が書いたブログが炎上したという事件。
この教員は本当に間違ったことをしたのだろうか?
法律を違反した訳でもなく、誰か特定の個人を中傷したわけでもない。
ただ一つの事件に対する、私的な感想と考えを述べたに過ぎない。
その考えに対して、
裁判の当事者である原告側が訴えを起こしたのならまだ納得がいくのだが
おそらくそのブログにコメントした多くの人は、
そのような立場にはないはずである。
また
「彼女の考えが問題なのではなく、表現の仕方が不適切だった」
という主張に対しては特に違和感を感じる。
なぜなら真の意味での言論の自由には
~誤ったこと(表現)を述べる自由も含まれている~
はずだからである。
これは1979年に起きた「北方ジャーナル事件」
(北海道知事選に立候補を予定していた元旭川市長が、
自分に対する中傷ともとれる内容の記事が掲載された雑誌の事前差し止めを札幌地方裁に申請し、
その仮処分が認められたことに対して、原告である出版社側がこれを検閲にあたるとして起こした訴訟。
結果は一審、二審、最高裁判決のすべてで原告の訴えを棄却。
事前差し止めは検閲ではないという判断が下された。)
における最高裁判決の中で、裁判官の補足意見として述べられている。
「思うに真実に反する情報の流通が他人の名誉を侵害・毀損する場合に、
真実に反することの故をもって直ちに名誉毀損にあたり民事上、刑事上の責任を問われるということになれば、
一般の市民としては、表現内容が真実でないことが判明した場合にその法的責任を追及されることを慮り、
これを危惧する結果、いきおい意見の発表ないし情報の提供を躊躇することになるであろう。
そうなれば、せっかく保障された表現の自由も『自己検閲』の幣に陥り、言論は凍結する危険がある。
このような『自己検閲』を防止し、公的問題に関する討論や意思決定を可能にするためには、
真実に反した言論をも許容することが必要となるのである。
そして、学説も指摘するように、言論の内容が真実に反するものであり、
意見の表明がこのような真実に反する事実に基づくものであっても、
その提示と自由な討論は、かえってそれと矛盾する意見にその再考と再吟味を強い、
その意見が支持されるべき理由についての
より深い意見形成とその意味のより十分な認識とをもたらすであろう。
このような観点に立てば、誤った言論にも、
自由な討論に有益なものとして積極的に是認しうる面があり、
真実に反する言論にも、それを保護し、
それを表現させる自由を保障する必要性・有益性のあることを肯定しなければならない。(以上主文から抜粋)」
この見解の背景には米国の、ニューヨーク・タイムズ対サリバン事件(1969年)の裁判において
最高裁のブレナン判事が行った法理があると言われているが、
つまりは、人間に常に100%の真実を語ることを強要したら、
人間は誰しも息苦しくなって自由にものが言えなくなる。
人が何かを語る場合、少し息抜きをするためにも、
多少は事実でないこと(下品、攻撃的、侮辱的な内容の主張、誤った情報、中傷を含む)
を語ってもよしとされる空間を残しておくことが、
真の言論の自由を保障するためには必要だという判決である。
だからと言って、全くのでまかせによって他人を攻撃していいというわけではもちろんない。
もし、その表現や言論に現実的な悪意(プライバシー侵害となることを知っていて、
またはプライバシー侵害になることを無謀にも無視する態度でもって表現行為をすること)が
あった場合には、名誉毀損という形で犯罪として扱われる。
これは言い方を変えれば、表現の不適切性を成立させる要件として
この「現実的悪意」(口を滑らせたのではなく、意図的であったということ)を
訴える側が証明しなければならないということである。
しかし、今回のように
教員側が自身の考えを述べると同時に(あくまでも個人的な意見としてだが)その根拠も示している場合
実際の裁判においては第三者であるブログ閲覧者が、その現実的悪意を持ち出すことは無理だと思われる。
だからこそ、ブログ炎上後の大学側の対応には残念である。
青学ほどの伝統も実績もあるマンモス校なら
多少世間から叩かれたところで大学自体が潰れるとは考えにくいのだから
平身低頭で一方的に謝罪するのではなく
(最低でも、「一人の教員の私的な発言なので関与しかねる」程度には)
精神の自由の観点で何らかの見解を示すべきだったと思う。
前述したブレナン判事の判決文を読んで、
久々に「アメリカのカッコ良さ」みたいなものを感じた。
また、それと同時に思うのは
戦後60年を越えても尚、
自由や権利というものに不器用な日本人は
それらの新しいメディアに慣れていないだけなのか?
それとも使いこなす素質がないのか?
ブログは個人という、社会における最小単位で持てる、
きたるべき情報化社会の新しい情報発信のメディアである。
だからこそそこに自由闊達な主義・主張が期待されるし、
それこそがブログが持つ最大の魅力であると思う。
しかし、今回の事件を通して分かるように
まだまだ多くのユーザー側に、言論の自由に関して知っておくべき知識が欠けている。
どのようなシチュエーションでそれが脅かされ、壊れるのか。
そしてそれによってどんな弊害が起こるかという認識も足りていない。
他国の独立と人権を叫ぶのも悪くないが、
その非難されている対象と我々とには
言論や人権に対する理解に大差はないのかもしれない。
「宗教や政治の世界には、きわめて大きな見解の相違がある。
ある人にとって侵すべからざる最高教義が、他の人にとっては許すべからざる誤った見解だ。
人は、他人を自分の見解に従わせようとするときには、しばしば、誇張に奔るし、宗教指導者や政治指導者を中傷したりする。
虚偽を言ったりさえする。
しかし、この国の人々は、言論表現の自由が、時に行きすぎや、悪用・乱用があっても、
長い目で見れば、民主主義社会に住む人々の考えと行いを、より良い方向に導いていくのに不可欠であったし、
これから先も不可欠であるということを知っている。」 (ブレナン判事 N・Y・タイムズVSサリバン判決 より)
「私が考える成人の線引き」
現在、日本では満20歳以上が成人である。
しかしそもそも成人って何だろうか?
昔の中国では、男子は20歳前後になると「冠礼」という儀式をして「童子」から「成人」になったという。
この儀式の時に彼らは一人前の証としてまげを結い、儀式の仲介から字を(あざな)を賜った。
そして最後に社会的な身分を示す冠を戴き、晴れて社会の構成員として迎えられるわけである。
(ちなみに、現在も「弱冠○○歳での快挙!」」などと言う時に使われる「弱冠」は
この冠礼を行う年齢を古代中国では”弱”といっていたことが由来になっているのです。)
またかつての日本での成人の儀であった「元服」はもう少し若く、
天皇家や貴族などの特権階級は12~14歳、
武士は13~15歳、
庶民は大体15歳以上で行われていた。
こうして成人になった後は
それ以前とは違って様々な権利を手にすることになり
上流階級では位が与えられ、官職に就けるようになっていた。
また身分に関わらず、
結婚や財産相続などが許されるようになったのも元服以降である。
(ちなみにpart2 桜田門外の変で暗殺された井伊直弼ですが、事件が起こったのが3月3日なのに
墓碑に刻まれている没日が3月27日なのは、後継者が元服をすませていなかったので、
死亡の公表を遅らせたためであるという説もあります)
しかしそれらとは逆に、農民は元服することで人頭税の対象になったりと
成人には「権利」と同時に、「義務」もまた発生してもいるという点を見逃してはならない。
多少話はそれましたが、これらを踏まえた上で私が考える成人とは
「与えられた権利を正しく運用でき、尚且つそれに見合った義務を果たせる人」である。
具体的には、例えば参政権はもう少し若い年齢から与えても良いのではないだろうか。
建前上は、義務教育である中学校卒業時点で投票に必要な知識はだれにでも備わっている筈であり、
中学校卒業後すぐに社会に出て働くといったようなケースでは
なおさら政治的な権利を持ってしかるべきであると思う。
若者は政治的な興味や経験が浅いので扇動されやすいとか
学校などでの人間関係に左右されて投票するのではないかという懸念もあるとは思うが
アパシーは若者に限った話ではないし
会社や親族ぐるみでの組織票があることを考えれば、現状とて大差はないように思う。
ただ「飲酒」に関しては私は現在の20歳以上という現状据え置きで良いと思う。
なぜならこれは身体的な年齢に大きく関わってくる問題だからである。
こんなことを書くのは不謹慎かもしれないが、
20歳前に飲酒経験がある人も相当数いるのが悲しい現状である。
しかしかつてはアスリート(自称)のはしくれだった私に言わせれば、
10代の青年期は運動生理学的にはゴールデンエイジと呼ばれ
筋肉や骨格、そして神経系が著しく発達する時期である。
その重要な時期に中枢神経や内臓にわざわざ負荷をかけるようなマネをしては絶対にもったいない!
体力のあるうちは身体能力をできるだけ磨いてほしい!
肝臓の黄金期は20代から!絶対にそこからでも十分鍛えられる!
はずなのだから…