【神道つれづれ 105】

※R4.7発行「社報」247号より

 

最近、TVの「プレバト」という番組で、俳句が大ブレイク。いつき先生のストレートな辛口コメント。手を加えた後に十七文字が生き生きと動き出す、マジックのような添削に、ワクワク感が高まり、つい見入っています。

 

「すごいなぁ」と関心しつつ、ふと、我が家の本棚を見ると『ことばの歳時記』に目が留まる。懐かしい金田一春彦先生の本。金田一先生は言葉のプロフェッショナル。学生時代、国語学・日本語の面白さに気づかされ、時代や風習により言葉の意味の変化や語音がもたらす特別な感覚を意識したことを思い出したのです。

学生時代の卒業論文「上代における「さやけし」考」は、金田一先生の本『日本語への希望』がヒントになり、テーマを決めたものでした。

 

『ことばの歳時記』七月を開くと、「お中元」「もともと盂蘭盆会の行事で正月十五日を上元、十月十五日を下元として祝うのに対し、七月十五日を中元の佳節として、半年生存の無事を祝ったのが起こりであるが、今は、上元・下元の方は影がうすれ中元だけが夏の贈り物の代名詞として、サラリーマンの頭を悩ますものとなった・・」とありました。

 

季節の行事は時代と共に変化し、季語としての役割が無くなる場合もあるようです。

中元の語源を考えると、贈り物が目的ではなく、自分の命を繋いでくれた全ての環境(現象・人・物)に、自分の無事を感謝することを伝えることが目的だったようです。

古人は、命を尊び、折に触れ、生かされる喜びを感じていたことが伺えます。生きる事が決して楽ではなかったからこそ。かもしれませんが・・。

 

生きている・生かされていることに感謝する風習や、変わらぬ四季の移り変わりを愛で、親族・仲間と共に祝い合う。そうして祭や年中行事が続いてきたのだと思うと、感慨深く、有難いと思います。

 

コロナ禍の様に、何らかの原因や、やむを得ない事情で、中断や廃止を余儀なくされることもあります。それでも、その起源や行いが尊いものであると判断する人々や後継者が現れたら、復活することもあるのではないかと思うのです。

 

自分にとって、大切なものは何か。未来に繋いでいきたい思いは何なのか。これからも自問自答していきたいと思います。  有難うございました。