【神道つれづれ 63】 

※H30.9 発行「社報」 201号より

 

最近、久しぶりに神楽舞の恩師、今は亡き 多静子先生の夢を見ました。

思えば、神道学専攻科学生時代、『古事記』に出てくる和琴に興味を持ち、お稽古場の門を叩いたのが、多先生との出会いでした。当時の私は、多先生の偉大さも知らず、ただ和琴を奏ででみたい一心でした。 その旨を伝えると、「まあ、あなた。今時、和琴なんてつまらないわよ。どこがいいの」と言われ、もう教えていないと、断られました。それでも、先生の気が変わるかもしれないと、その日、お稽古場の様子を見学させていただきました。

その時の、神楽舞の美しさと澄み切った鈴の音、その時の空気が何とも言えず、今思えば、何か魔法にでもかかったような、そんな衝撃を受けたのです。

 

和琴を習いに行ったのに、その日から神楽舞の門下生になりました。採り物の扇とお鈴が届くまで見学。届いてからは、多先生に一対一で扇舞を教わりました。一か月間みっちりと。とても有難いことなのですが、神楽舞に対する多先生の熱意は人並み外れておりました。

その舞は「浦安の舞」。 戦時中、国の平穏無事を祈って詠まれた歌。

「あめつちの 神にぞ祈る 朝凪の海のごとくに 波立たぬ世を」

まだ、若い昭和天皇の御製に、多先生のお父様が舞をつけられたものでした。この舞の由来を知った時、何故この舞が、これほど清らかで美しいのか。全身全霊「まこと」を以て舞うべきものなのかを知ることができました。

 

さらに、多先生の遠いご先祖さまが、あの太安万侶であったこと。

今では考えられませんが、昔、「古事記偽書説」が唱えられ、多一族は辛い想いをされたことがあったそうです。昭和54年太安万侶のお墓が発見され、『古事記』の存在が認定されました。私は、『日本書紀』より『古事記』に親しみを感じていたため、とても驚きました。『古事記』のご縁で、多先生にお会いすることができたのだと思った事を覚えています。

 

私の神道のルーツは、幼い頃の生活体験。国学者の流れを汲む古神道をベースに、國學院大學で学問としての神道を勉強しつつ、神楽舞を通し その精神を、多先生の体験談を聴くことでも学ばさせていただきました。こんな恵まれた環境で、神道を学べたことを心より感謝しています。これも多先生との出会いがあったからこそ。

不思議な縁に引き寄せられて、神世の事をいろいろと教えてもらうことになりました。

多先生の実体験には、幼い頃の私の体験と重なるものがあり、不思議な出来事も直に理解できました。そんな東京での生活に別れの時がやってきました。その際、多先生から「あなたは、また戻ってくるでしょう」と言われ、いつか機会があれば、大好きな神楽舞に関わりたいと思ったものです。

 

数年後、神楽舞の指導資格者の「桜会」で中国地方のブロック長も務めましたが、残念ながら神楽舞を広める人生には至りませんでした。それでも、未練があったのでしょう。有資格者の「桜会」には、ずっと席を置き続けました。

ある時、ふと、心の整理のため、退会届を提出。その翌年のこと、多先生は他界されました。享年百一歳でした。多先生を偲ぶ会には出席せず、ただ自宅で先生を偲んだことを思い出します。

 

あれから、いつの間にか五年。夢の中では、多先生の祝賀会が開かれているようでした。たくさんの神楽舞の先生方や偉い方々が列席され、私は末席の角で、お姿を垣間見ているようでした。

何の儀式かわからないまま、無礼講のような緩い時間になった時の事でした。突然、私の前で、多先生が立ち止まられ、「まあ、お久しぶり」と声をかけてくださいました。紋付姿の多先生に比べ、私は平服。 多先生はお付きの方に構わず、私の前に座られ、膝を突き合わせて話し始められました。

随分長い間、お話をしたように思います。私は、神楽舞を舞えなくなったことを詫びることしかできませんでした。それでも、多先生には全てわかっているようでした。

とても長い間、お話をお聞きしたのに、その内容をよく覚えていません。ただ、一つ一つお話をされる度に、多先生の体が小さくなり、「私の膝の上でよければどうぞ」と申し上げると、ちょこんと座られ、話の続きをされました。

流石に、お付きの方に怒られるのではないかと思いましたが、気づかれない様子。

そして、いよいよお帰りの乗り物が到着したとのことで、多先生との最後のお別れをさせていただきました。

 

舞えなくても神楽舞の精神を伝えることはできる。生きる目的の様なものを噛みしめ、目が覚めました。 私の心の奥底に慢心の種があったのでしょうか。それとも、私の心のどこかに潜んでいる苦しみや悲しみを取り除くために見せてくださったのでしょうか。

不思議な夢に涙し、目が覚めました。    多先生、ありがとうございました。