【神道つれづれ 53】 

※H29.10 発行「社報」 190号より

 

先日、NHKの地方発信ドラマ「舞え! KAGURA姫」を見ました。

舞台は広島県。私にとって数年前からご縁のある安芸高田市。この町は、戦後の日本がGHQの支配下に置かれた時、宗教性より娯楽・芸術性をアピールして、神楽の保存に成功したそうです。

今では、高校生の神楽甲子園まで開催する程、熱い町になっています。

 

ドラマの舞台にもなった神楽門前湯治村は普段から観光客も受け入れ、神楽が観賞できる特別な所です。もともと三本の矢でも有名な毛利元就の影響をうけている町。

神楽は人々の心の糧になっていたのでしょう。

里神楽には、そんな力があります。そこでしか味わえない。そこでしか生まれえなかったもの。その源をたどれば、そこに住む人々の暮らしの歴史があります。

そして、神様の存在も、共にあるのです。

 

ドラマでは、「何故神楽を舞うのか」という問いに、

「自分が生きているということを神様にしっかりみてもらうため」と答えたのが印象的でした。

昔の人が感じた神様というのは、はっきり目には見えないけど、人が人として生きるために影響力のある力。 そして、生きる支えになる存在だったのでしょう。

 

私も若い頃、神楽舞を舞っていました。『古事記』の太安万侶の子孫、今は亡き多静子先生の門下生でした。

神楽舞には里神楽の様な激しさや派手さはありませんが、大地に足をつけ、採り物を持ち舞う。採り物は神様の乗り物となり、決して粗末に扱ってはならぬもの。額を出すのは、神様にしっかりと見ていただくため。

神楽への想いの中に共通するものが多く存在し、忘れかけていたものを思い出すきっかけになりました。

 

神楽舞は、たとえお稽古中でも、いろいろと不思議なことが起こります。

風通しのよい神域であれば、顕著にあらわれることがあります。普段の所作に、風の流れや小川のせせらぎ、野鳥の声が呼応して、自分が自分でない舞を舞わされることも、時にありました。

神人一体となった瞬間を体験すると、どんな境地に陥っても、神様に守っていただいている。自分の信念・誠を以て貫けば、きっと乗り越えられる勇気を頂きます。

今は、昔のような舞は舞えませんが、舞の精神は、今も自分の体の中で生きています。

 

私の神楽の起源は、石見神楽八岐大蛇。幼い頃の記憶です。

激しい里神楽は、見るだけで魂を奮い立たせ、パワーを頂けます。

神楽って、不思議なものですね。