【神道つれづれ 50】 

※H29.7 発行「社報」 187号より

 

学生時代の恩師、上田賢治先生を偲ぶ会のご案内を頂き、久々に先輩や同期に会い、

先生のお人柄について語り合った事を、ふと思い出しました。

そのきっかけは、その時頂いた、故上田先生の著書『記紀神話の神学』という本。

実家の本棚を整理をしていたら、偶然、目に留まりました。

 

上田賢治先生は、國學院大學大学院前期課程の時の、私の担当主査教授です。

専門は宗教心理学・神道神学。正義感が強く、納得のいかないことはノーという。

いつも「なぜ、そうなのか」と自問自答を繰り返す授業に、私は先生の学問に対する誠実さを感じたものです。

そんな上田先生が学長に就任された頃、私は、早速お手紙を出しました。

祝辞のつもりで、上田先生なら、神社界の格差や古い体質を変えていただけるのではないかと期待を込めて書いたものでした。

それにしても、返事はご立腹の内容。そんな簡単なものではない。誰しもわかっていることを明らかにすることの大変さ。それぞれの立場もわきまえつつ解決することの難しさにも触れられていました。

上田先生は、神社界から離れている私にも、全力で回答を下さいました。

 

高い地位に就くという事は、責任が重くなるという事。

それでも、先生は大きな圧力に動じることなく、正義を貫き、納得のいかないことは、決して妥協されなかったと。後に、数名の方から聞きました。

自分の誇りをもって生きることができているか。人としてどのような生き方をすればいいのか。常に自分の心と対峙しておられた先生の生涯を鑑みながら、上田ゼミ生としての誇りを改めて感じたものです。

そんな上田賢治先生の本から・・「以下引用」です。

 

「人間の宗教的営み、それが自覚的に営まれる方向への契機となるのは、心理学者や社会学者による調査研究の示す所、千差万別で、その条件とか契機とかを特定することはできない。

しかし、その特定個人の置かれた自然・社会・家庭環境の中で、自分自身が一体何者なのかという問いに直面せざるを得ない状況から始まり、永い葛藤時期を経て、見えて来るもの、自己一己を超えるものと出会い、それは特定の個人や状況を超えた神、あるいは仏、真理、存在の理法、運命等々、それを受け容れて生きようとする姿勢のほぼ定まったときに、形成される生きる事への姿勢によって決定されると言ってよいのではなかろうか?

 

そのような人間が人間として生きる事に指針となる価値の根源、それは本来、非人格的な或るものともいえるのだが、信仰生活を営むに至る者たちにとっては、自ずから人格と人格としての関係を持つことが可能となるからである。そうした信仰対象を日本人は、知られる我が國の歴史の初めから「カミ」の語を以て表現してきた・・」

以下略

 

これは、第一章 天地開闢と神明の顕現の冒頭で記されています。

人間とは何か。人間としてどう生きるか。恩師の本質追及の生涯に感服・感謝です。