【神道つれづれ 35】 

※H27.12 発行「社報」 168号より

 

何の為に神道を学ぶのか。神社は、本当に必要なのか。

そんなことをずっと考えていました。学生時代から、ずっと。

そんな時、父の机に置いてあった書物を、それとはなしに読んでいったことがありました。

それは、『神仙霊教』。今の時代にミスマッチな内容もたくさんありましたが、読むと結構面白い。自分にとって、大事だと思うことがいくつかありました。

今回は、その一つを紹介します。

 

「見るもよし 聞くもよし 思うもよし 行うもよし 淡々として無心になり片寄らず中心に在りて為せ。 己が心 人間の心でするな 相手の立場になっても為すな 片寄らず中心に在りて為せ。

これを為すものは 其のままが梵(清浄・神聖なもの)にして その姿は神にして 其のままの言葉は神声にして その思いは神の放送なり。何を為しても為したるに非の境に常に立て、判るかこの大神理が。

汝には一寸至難なる宿題かも知れないが課しておくぞ」・・・

これは、今の私の課題でもあります。

 

先日、ラジオのトーク番組で、

「最近、人を裁く人が増えてきた。その人の話を聞いていたら、何様なんだろうと思う事が多い」と。

これを聞いた時、さっぱり意味が分かりませんでした。『人を裁く』って、どういう意味?

私には、裁判長か、閻魔大王くらいしか思い当たらず、正直意味が良く分かりませんでした。

 

一緒に聞いていた夫が、「自分の思うようにならないことが生じたら、それはあの人が悪いと決めつけて、勝手に人格を作り上げてしまう事。自分の都合で人を裁くこと。最近そんな人が多い」と言っていました。

私は、どちらかというと、「なぜこんなことになったのか。自分に原因があったのでは・・」と自分を責める傾向があります。だから、いつまでも自分に自信が持てません。

 

でも、父の恩師のこの本の言葉を読んだとき、合点がいきました。

神道では、平常心というのを大事にします。真の平常心というのは、こういう事ではないのかと。これを実践するのは大変ですが、私も心掛けていきたいと思いました。

 

「己が心 人間の心でするな 相手の立場になっても為すな 片寄らず中心に 在りて為せ・・・」 かくありたいものです。 

一年間、ありがとうございました。