【神道つれづれ 13】 

※H25.3発行 「社報」 135号より

 

神社が建立されてから、いろいろなことがありました。良いことも悪いことも。そして、今、ここに大蔵嶽神社が在ります。『岩神が呼んでいる』 この本を出版して、もう15年になります。執筆当時は、神社建立由来について、様々な解釈が飛び交っていました。参拝者が増え、神社の存在が、地域に知れ渡っていった時期でもありました。『岩神が呼んでいる』は、もともと、いろいろな誤解を解消するために、神社建立に至るまでの過程を綴って、出版社に応募したものでした。

今、何故、『岩神が呼んでいる』なのか。今一度、その有無を問いかける時期が来たようです。二年前頃からでしょうか。続編を尋ねられる機会が増えてきたように思います。神社建立由来の真実を伝える目的の本だったのに、何故、続編を求められるのか?ひょっとして、今の神社の在り方に、問題があるのではないかと、疑問を持ち始めました。

 

世界中の宗教の中でも、神社神道は、特殊な存在です。終戦後、マッカーサーが、日本をキリスト教国にできなかった理由もそこにあったと言われています。

今の神社の役割。本当にそれでいいのか。マッカーサーも断念したキリスト教化への壁となったものは、一体何だったのか。改めて考えていく必要があるのかもしれません。

 

何故、大蔵嶽の山の神様が、世に出たいと言われたのか。

私たちにとって大蔵嶽奥宮は、自然信仰の原点。高くそびえ、人を寄せ付けないほどの力を持つ山というわけではありませんが、かつて山津波が起こり、眠りについた山です。山の神様・自然神の力が、今から必要になるのでしょうか。

『岩神が呼んでいる』続編は、今の所、出版する予定はありませんが、折に触れ、この社報で、発信していけたらと思います。

 

「自然には神々が宿る」 これは、神道初期のごく当たり前の思想です。自然という言葉は、随分新しいものですが、自然の中に神々を感じることは、人類がある試練を超えた時から、当たり前だったので、古くは言葉として記録されていません。これが、ただの思想なのか、それとも、太古の人は、見たり感じたりしていたのか。実は、そんな疑問を解消してくれる出来事がありました。

 

森林インストラクターとして、自然体験プログラムの創作に関わり始めた頃の事です。久しぶりに、大蔵嶽奥宮にお参りしたくて登りました。

私は、一人で山に入る時、いつもカメラを持っていきます。すると、山の中に森があるような、不思議な光景を目にしたのです。よく見ると、大蔵嶽奥宮(岩屋)へ導く、通天楓でした。枝を屋根のように広げて育つので、正式名はイタヤカエデ。

そのあまりに見事な枝ぶりの全体を見たくて、山道をさらに登り振り返り、パチリ。

その後、PCの待ち受け画面にしていました。

すると、待機中にグルグル回る印の先に、もののけ姫に出てくる木霊のそっくりさんが、浮かび上がってきたのです。何故、・・。 不思議な気持ちがこみ上げてきました。画像を通さなければ見えないものかもしれませんが、大昔の人の目には、見えていたのかもしれないと、ふと思ったのでした。